美大生がペンについて語る 後編
プロダクトデザイナーを志望する人間にとって彼は神様のような存在だ。
なにせ、イタリア人以外で初めてフェラーリをデザインした人間なのだ。
これは字面以上に圧倒的な出来事だ。フェラーリが名門というだけでなく、
イタリアという閉鎖的な土地柄、フェラーリ社の職人気質さ、
そしてまして彼は肌の黄色い日本人だ。
ドイツ人がデザインしました、というのとわけが違う。
こういったスーパーカーでも、最初は一枚のスケッチから始まるわけだ。
以前「プロフェッショナル」で奥山氏がペンについて言及していた場面が印象的で、
美大仲間とペンについて語り合うとき、僕はよくこの話をする。
『奥山が常に持ち歩いているのは、どこにでも売っている安価なペン。
基本的にはこのペンしか使わないが、万が一なくてもいつでも
どこでも買うことができる。
そして、他の人が「ちょっと貸して」と手を伸ばしてくると、
「冗談じゃない!」といって断るようにしている。
人にはそれぞれ書く際の癖があり、その癖はペン先に表象する。
誰かが勝手に僕のペンを使うと、ペン先の形状が微妙に変わってしまう。
そうするといつも通りのスケッチが描けなくなってしまう。
だから人にペンは貸さないわけです。』
これに対して茂木健一郎が『まるで日本人と刀のようですね。』
と関心するわけだが、3年前僕はこれを見てしびれてしまったのである。
例えを出せばキリがないが、
「武士と日本刀」「料理人と包丁」「外科医とメス」「画家と筆」
「バンドマンとピック(ギター、というのは少し違う感じがする)」
そして、「デザイナーとペン」だ。
プロフェッショナルにはプロの道具があって、
その道具には思い入れがあったり、あるいは全くなかったりして
それゆえにその関係性は美しい。
佐藤雅彦は東京大学卒業、現在は東京芸術大学で教員もしている映像デザイナーだ。
僕が憧れるデザイナーを2人あげるとしたら1人は彼だと思う。
こんな人知らん、とは言わせない。
彼は映像デザイナーとしてこれまで相当量の映画・映像作品・CMを生み出したからだ。
あげればキリがないので割愛するが、「ピタゴラスイッチ」なら誰でも知っていると思う。要するにあれの生みの親だ。
佐藤雅彦は親の形見である万年筆を20年以上愛用していて、
「暮らしの手帖」の執筆をするときも、映像のスケッチを書くときも
その万年筆を使うことが多い。
これもペンに対するつよいこだわりだと思う。
佐藤雅彦はデザイン系の学び舎を出ていない。だからこそ、スケッチは
たどたどしくシンプルで、しかし線は知的でどこか図形的だ。
ペンが好きになると、人の描いたものに興味がわく。
肥料好きの農夫が穀物の収穫を待つみたいなものだ。
そういえば以前佐藤雅彦が『考えの整頓』にて、
『目の解像度よりも手の解像度のほうが遥かに高い。
たとえば髭をそり終わったのを目で確認するよりも、
手で撫でてそり残しを確認したほうがずっと正確だということだ。』
と説明していた。ひとは書くことで進歩してきた。
さまざまな記録媒体がばらまかれていても我々はほぼ毎日必ず
ペンで何かを書いてはいないか。
それだけ書くというのは人間にとって象徴的で、
書かれたものというよりは書いていることそのものに価値があるように感じられる。
そう考えるとやはり「書く」という動作は尊い行いの絶え間ない連続であり、
その関係性を重要視する限りにおいてペンにこだわるのは良いことなのだと思う。
なに知的ぶったまとめ方してんだ
だまれ!
アンギャーーーーーーーーーーーーー!!
ちなみに4年間美大に身を置いた僕がおすすめする
ボールペンは「uni ジェットストリーム0.5」です!