友達が"変わっていって"しまう
友達って何だろうねって、まるで幼稚園生のような始まり方だけど、
たしかに幼稚園生の頃僕は友達についてよく考えなくちゃいけない時があった。
それは僕の誕生日会の日で、僕は家に友達を10人くらい呼んでパーティーのようなものを開いた。ところが、10人も人を呼べばポケモンが好きなやつもいるしビーダマンが好きなヤツもいるしデジモンが好きなヤツも居る。僕がろうそくをフーッと消して自由な時間になった途端あちこちで好き勝手始めちゃって、僕の居場所がなくなってしまったのである。
それで僕はお母さんに泣きついて「あんなの友達じゃない!」と叫んだのを未だに覚えている。そのとき僕が気付いたのは「友達っていうのは自分の都合に合わせて自分の気持ちいいようにしてくれる便利な人間ではない」ということだった。
何を今更当たり前のことを、と思われるかもしれないけれど、僕は今でも"一緒にいて気分がいい人"を友達にして、"一緒にいて気分の悪い人"を敵に見なしがちだ。
一緒にいて気分がいい人を身の回りに集めれば確かに楽だろうけど、それはぬるま湯に浸かっているようなもので一向に成長できない。かといって「一緒にいて不快な人とも仲良くしましょうね」ってことじゃなくて、「一緒にいて楽な人=こいつこそ親友!」っていう方程式に固執しちゃうとヤバいって言いたいんだ。
学年があがって中学、高校、大学に行くにつれて僕たちは友達を作るという行為をシステム化させて、そのシステムに乗っ取って友達をつくるようになる、のではないか?
「おれ〇〇学科なんだけど君は?あーそうなんだ、あ、じゃあさ、アイツ知ってる?眼鏡の....そうそう!おれそいつの友達なんだわ。そういえば名前は?そっか、じゃあマキちゃんって呼んで良い?」みたいな感じでさ。
Facebookをはじめたとき。
お互いに投稿を見せ合うようにする承認行為、mixiで言うなら「マイミク」、アメブロで言う「読者」という行為をFacebookだと「友達」登録という。情報のSNS化の激流のなかで「友達」という意味が少しずつ変わっていっているような気がする。友達という意味が軽んじられている感じだ、僕はそれが少し怖い。
それは「簡単に友達になれちゃう」ということでもあり、逆を言える事だ。「友達なんて簡単にやめちまえばいい」。
友達じゃなくなったしリムろう、もう同じ授業とってないしLINEブロックしよう、別れたからFacebookから切ろう。それを続けていくことが、自分の中の「友達」に対する考え方の倫理観を歪ませているのではないか。
久しぶりに旧友にあって「おや」と思う。僕もその経験はある。卒業して久しぶりにあった親友が少し雰囲気が違う。学校にいたころのあのノリが通じない。なんとなく合わない感じがする。
そういう事態に遭遇したときこそ、「なんだこいつ、やーめっぴ」じゃなくて、きちんと興味を持つことが必要だ。どこが変わったのか。本当に変わったのか。変わったのは自分ではないのか。ちなみにこういう場合だいたい変わったのは自分なんだけどね。
自分は自分だから変わったことには絶対に気付けない。
それを努力して、苦労して乗り越えると一個上の友達になれる。すなわち、環境が変わっても変わらずに付き合ってくれる友達である。
だから久しぶりにあったりした友達が「かわった」と思ったらある種チャンスだと思って向き合ってみた方がいいかもしれない。