誰かの為に良いことをする。こっそりと。
葉子はいつも人よりずうっと早く学校に登校する習慣があった。
まだ誰も入っていない教室は、新品の空気が漂っている気がして好きだった。
葉子は毎日誰もいない教室に着くと、黒板のチョーク受けや窓のサッシや教壇をぴかぴかに掃除していた。
こういう日課がつくようになったのには理由がある。
学校では毎日授業の終わりに掃除の時間が設けられていて、決められた部分を生徒が分担して掃除をする決まりになっているのだけれど、その分担から漏れている箇所が何カ所かあった。黒板は綺麗になってもチョーク受けは汚いままだったし、教壇の表面をほうきで掃く仕事はあっても拭き掃除はしなくても良かったのだ。
つまり人は、「これをしなさい」と言われると、逆にそれ以外のことはしなくて良いと言われてると勘違いしてしまうんじゃないかしら、と葉子はふと思った。
掃除されないままのチョーク受けや黒ずんだ教壇を見て、葉子はいつも「どうして誰もやらないのかしら」と苛立っていた。そうしてある日「自分がやればいいんだわ」という至極簡単なことに気付いた。誰もやらない面倒なことは、自分がやってしまえば良いのだ。
葉子は訳あって皆に特別扱いされて大切にされていたので(葉子は皇族の生まれだった)ほうきなんて一度も持ったことがなかった。なので葉子は誰もいない朝の時間に、誰にも見つからないようにせっせと掃除をするのだった。
人に見つからないようにちょっと良いことをするのは気持ちがいい。
逆に、誰かに見られながら良いことをすると何だか気恥ずかしいし、周りに対して「自分はちゃんと良いことをしているのにどうしてあなたたちは」という変な気負いが生まれてしまう。前に葉子がこっそり街のボランティアでゴミ拾いをしたときもそうだった。ゴミ拾いをしている間は、ポイ捨てするような人が心から憎くなるし、もっといえば街に落ちているゴミを素通りする人にもむっとしてしまうくらいだったのだ。
つまり自分が善行をしているときは、あまりにも自分が正義の立場にいるので、周りが劣っていて間違っている人間に見えてしまうことがあるのだ。
葉子は自分のそういった要素を発見したときは随分落ちこんだ。自分の浅ましさに対してだった。
ある朝、たまたま早く学校に来ていた担任の先生がせっせと掃除をする葉子の姿を見かけて感動し、涙を流した。その日の朝礼で先生は葉子が朝皆が掃除しなかった部分を一生懸命綺麗にしていた様子を揚々に語り、皆の前で葉子をたくさん褒めた。
葉子はなぜか、先生に責められているような気持ちになって、その場から逃げ出したいような衝動にかられた。皆に掃除をばらされたことよりも、自分のためにやっていた良いことを、皆の為の良いことだと認められてしまったことが悔しかったのだと気付いたのは、葉子が中学に上がった頃だった。