就活生に捧ぐ 社会の歯車になりたくないってどうあがいてもアナタ歯車ですよ
歯車って少なくとも良い意味じゃないよねっていう話
最近はそもそも"歯車"というもの自体なくなりつつある時代なので、近年会話や文章の中で"歯車"というワードが出てきたら、十中八九「社会の"歯車"」的な意味合いとして使われているのではなかろうか。
goo国語辞典によれば
1 円柱・円錐台などの周縁に歯を刻んだもので、対にして歯をかみ合わせることにより、を確実に伝える装置。
- 2 ある組織を動かしている仕組み。また、その要員。「管理社会の―に組み込まれる」
ということになる。要するに「おれは歯車になんかならないぜ!」というのは「組織に属さないぜ!」という意味であり、「仕組みに取り込まれないぜ!」という意味でもあるわけだ。大学生は大学の歯車かもしれないし、会社員は社会の歯車かもしれない。
ここで冒頭の話に戻るけれど、歯車って少なくとも良い意味では絶対使われないよねっていう話。「俺サ、実は会社の歯車なんだよネ。」なんて言う決めゼリフが今までにあっただろうか。いや、ない。(疑問反語)
歯車になんて一度もならない人生というと風のように雲のように自由に何にも縛られず自分の生きたいように生きる超ゴーイングマイウェイライフかっこいい!ってなるかもしれないけれど、反社会的ロックンローラーだってタバコを買えばタバコ税を国に納めてるわけですよ!
税金に噛んでる時点ですでに社会に取り込まれてるじゃないですか。
いや、これは単に言ってみたかっただけで
今回の趣旨とはあまり関係がないのだけれど。
例えば社会的な道を外れて、ヤクザになったとしても、ヤクザにはヤクザの社会があるわけですよ。それは極端な例として、どんなフィールドだろうと職業だろうと何かしらの歯車にはなると思うんですよね。無人島で笛を吹いて死ぬまで一人です、という人生にしてもいつかは土に帰り、そこに植物が根を張るわけです。全ての歯車から逃げても大きな生命のサイクルには逆らえない。命の歯車。
あるいは、独裁者だろうが大統領だろうが宇宙飛行士だろうがサッカー選手だろうが、社会の歯車であり、政党の歯車であり、政治の歯車であり、研究の歯車であり、チームの歯車には違いなく。ヒトラーだって歴史の歯車といえばあるいはそうかもしれない。
何が言いたいかって
結局何かしらの歯車に組み込まれるのは逃れようのないことなのだから、自分が何の歯車で、何の役に立っているのか把握していないと不幸よ
ということなんです。
例えば自転車のようなものに乗り込んでひたすらペダルを漕ぐ仕事に就いたとして、それが何のためにペダルを漕いでるのかわからないがとりあえずお給料日に給料が支払われる仕事ってすごく辛いと思うの。
逆に同じペダルを漕ぐ仕事でも、そのペダルを漕ぐことで電気が発電されて遠くの灯台が照らされて船乗りの安全を見守っている...とかいうことがわかっていたらモチベーションになるし、「社会の役に立っている喜び」を少なくとも味わえると思うのです。もう例えがめちゃくちゃすぎてわかりづらかったかもしれないけど。「社会貢献」って幸福の要素としてでかいらしいよ。
僕はデザイナーとして働いているので、デザインをする以上目的がはっきりしていて、消費社会の歯車には違いないがきちんと目的がわかっている歯車でいいじゃないか、と思われるかもしれないが、たまに「おれ何のためにこれやってるんだろう」という仕事をやっているときがある。
「負け案」とか「捨て案」っていうんだけど、先方に提案書を出すときに1案だけ出すと必ずケチをつけられるわけだ。1案出すとアラを探すのが仕事になってしまう。
ところが2案出すと、AとBとどっちが良いかを決めるのが仕事になるのでケチをつけられずに済むという。A案とB案をつくるとして、とりあえずA案は全力でつくってB案はぱっぱとつくっちゃうわけだ。それが負け案。捨て案。
この捨て案をつくってるときは心底「俺なにしてんだろ」って思うし「これ確実に人を幸せにするためにやってないよな」と思って萎えたりする。
デザイナーにもそういうことはあります。
ちょっと話は逸れたけど、なんの部品でどのあたりの歯車なのかを把握した上で、納得した歯車になろうという話でした。就活生の皆さんは就活がんばってください。