仲間に「混ぜて」は日本人特有の感覚
このエントリーを読みました。
僕が子供の頃は「混ぜて」でした。
他の友達が遊んでいる既存の集団があって、そこに「混ざる」。
よくよく考えてみるとこれって面白い表現ですよね。俺たちはコーヒーと牛乳かよと。人間関係はいつからカフェ・オレになったんだと。
それでこの辺りについて不意に思い出した面白い解釈があったので紹介する次第。
日本人は液体
日本人の関係はリキッドなのだという。
人と人の関係は常に流動していて、まあこれは多分言語環境がハイコンテクストであることと密接な関わりがあると思うんだけど(相互関係にあるのかもしれない)移民に慣れない島国特有の「我々」という感覚と、その我々の中で関係性が揺らいだり融合したりしてうつろいでゆく関係性。混ぜてもらったあとは「我々」になれる。空気を読んで、右へ倣えの協調性重視。それが日本人のリキッドな感覚だ。
欧米人は個体
それに対して欧米人の感覚はソリッドだ。
個人はあくまで個人であり、それらが集まって集団になったとしてもそれは個の集まりにすぎない。
昨日大学でも話したんだけど例えるならばドイツは日本と正反対でローコンテクストだ。ハイコンテクストの逆だからローコンテクスト。移民が集まってできている社会なのであらゆる背景・人種の人間とコミュニケーションをとらないといけない。だから言葉は言葉以上の意味合いを持たない。
「手伝ってください」に対して「私は手伝いません」と言ったならばそれは「手伝わない」という意味でしかない。もし日本人に対して全く同じ断り方をしたらおそらく相手は不快な気持ちになるだろう。「自分のことが嫌いなんじゃないか」とか「なんて冷たくて傲慢なやつなんだ」「もうちょっと一言あってもいいだろう」と言った感情が芽生えるのではないか。少なくとも僕はそうだ。
日本ではこういった状況で頼みごとを断るのであれば「あーすみません今はちょっと」とか「手伝いたいんですけど何分ちょっと....」「今はちょっと!」とか言うんじゃないだろうか。ドイツ人に「今はちょっと」って返したら「はあ?」と言う顔をされるだろう。ちなみに僕はされたことがある。本当に意味がわからないんだと思う。断るならちゃんと断ってくれないとわかんないよ。と言うわけだ。
ちょっと話が逸れたけど、じゃあ欧米人は仲間に入りたい時になんと言うのか。「加えて(=join)」と言うのだそうだ。仲間内の集まりは個人の集合。そこに足し算されて、決して混ざり合うことなく、しかし集まる。それは言うなれば「我々」と言うより「私と私と私」と言った感覚なのかもしれない。僕自身日本人なので想像で言う他ないけれど。
この辺りの話が確か「すべてがFになる」で紹介されていて心に残っている。以来、会社で外国人と話すときはなるべくローコンテクストをこころがけ、マニュアル車のシフトチェンジみたいにこの辺りを区別して使い分けるように気をつけているのだ。
はっきりとした結論はないけど、
最近考えていた面白そうなアイデアに近かったもので。
おしまいー!