面倒臭い、と戦うには
人間にとっての最大の敵とは、
病でも死でも嫉妬でもなく、
「面倒くさい」という感情だと思う。
致命的な病に冒されて、苦しんで死ぬ。
その人の生き方や考え方次第では、それでも幸せだったかもしれないし、
嫉妬にまみれても、エキサイティングな人生を送れたのであれば
それはそれで良いと思う。
ところが。
面倒くさいという感情だけはどうにもならない。
あらゆることが面倒になってそれでも幸せだった人生っていうのはちょっと聞いたことがない。
「面倒臭がり」は高じると、人として生きてゆく価値を失ってしまう。
本当は朝起きるのは面倒くさい。
自炊が面倒くさい。洗濯も面倒くさい。
仕事も人間関係も面倒くさい。
そりゃそうだ。だって本当はなんだって面倒くさいんだから。
誰だってお日様の照らす砂浜でごろごろ出来たら幸せなのだ。
(写真はフィリピンのパングラオ島。マジすげえ。マジ行きたい。)
でも僕たちはちゃんと学校に行かなければならないし、
仕事に行かなくちゃならない。そのためにはお母さんが起こさなくても
自分で起きなくちゃ行けないし、まともな御飯をきちんと食べるのがベターだ。
毎回自分のケースになってしまうのが忍びないが、
僕はもう本物の面倒くさがりで、
卑小な例を挙げれば、
やや遠方のゴミ箱に、ちり紙を投げ入れるのも面倒臭いからだし、
挙げ句の果て自分の部屋であれば、失敗しても取りに行かなかったりする。
こう考えると、卑小な例はキリがない。
もうすぐなくなりそうなトイレットペーパーを放置する。
コンタクトレンズを十分に洗浄せずに保存液につける。
脱いですぐに服をハンガーにかけない....etc
ぼくは正真正銘の面倒臭がりで、
常人の2、3倍面倒臭がりである自信と実績がある。
なんせオチが思いつかなくて記事を爆破するくらいである。
(前回の回想。)
その面倒くさがり屋は、筋金入りの折り紙付きだ。意味わかんねぇけど。
ただ、僕くらい面倒臭がりになると人の形をして行きていけないので、
とにかく率先して面倒くさいことをやることにしている。
普段から自分を俯瞰して見るイメージで、「あ、今自分面倒くせーって思ったな」
と感じたらとにかくそれを徹底的にやるのだ。
やったらやったで良い気分、と言えるほど人間出来上がっていないが、
終えてみると意外にも「やらなきゃよかった」とはならない。
絶対に。
でもその一方で、
東大や理工大に現役や1浪で入る人たちも
やはり面倒くさがりだったりする。これが面白い。
ドラゴン桜12巻にこうある。
「東大合格者がまじめで勉強好きというのは大間違い。 彼らは究極の面倒くさがりの楽したがり・・
実は受験勉強も面倒くさくてしたくない。 でも大学に入りたいからいかに楽して突破できるかを考える」
こう見ると、
我々の考える「面倒臭い」というのと、少し質とベクトルが異なる。
面倒くさい → やらない
ではなく、
面倒くさい → 楽してベストを出す
彼らはこんな思想を土壌にして効率良く暗記し、
またミスなく楽ちんに方程式を解く方法を追求するのである。
面倒くさいのは当たり前。誰だって面倒くさいと思ってる。
だから、「面倒臭いからやらない」のではなく、
「面倒臭いから、どうしたら楽に出来るか、
どうしたら面倒に思わずにこなせるか。」に労力を使ったほうが
遥かに建設的ということだ。
具体的には、朝起きるのが面倒くさいのであれば、
朝起きてからの着替えを前日から準備しておくだとか、
起床時間一時間前からタイマーで暖房を入れるようにして、
置きやすい環境を準備するだとか、
やりようはいくらでもあるのだ。ほんとうは。
そういった下準備や工夫すらも「面倒臭がって」いるならば
その意識を改めなければならないだろう。
僕もブログを書くのが面倒だなと思うときがあるけれど、
日々ブログのアクセス数をチェックして、
「やべえ今日書かないとさすがにアクセス数落ち込む」
とか考えて自分を焚き付けるようにしているよ。
まぁガンプラ完成した途端アクセス数が2件になったことは
生涯忘れないけどな
今日はなんとかまとまった
またね