忙しきは幸せ
師走という言葉の語源については諸説あり、正確なところはよくわかっていない。
少なくとも「師走」という漢字は古来からあるわけではなく、当て字らしいということ。
平安時代末期の書物(名前は忘れた)によれば、僧が経を読むために東西を馳せるために「しはせる」が「しはす」となったものだが、他にもいくつかある。
一年の終わりなので「年果てる」=「としはつ」から「しはす」になったもの。
四季の果てる月を意味する「四極(しはつ)」からくるもの。などなど。
12月は何かと慌ただしい。慌ただしくなくともイベントが目白押しだったり、電車の受験生が目立ってきたりしてばたばたした日本の雰囲気を肌で感じる季節だ。
さて、本題に入る。
忙しいのは良いことだと思う。
忙しい人生と暇な人生なら、忙しい人生が良い。
と、思う。あくまで私的見解として。
さらに言及すれば「忙しくて不幸な人」は少ないんじゃないか。
もちろん世界には1日1ドル以下で生活する人が朝もなく夜もなく忙しく働いているが、まずとりあえず国内の、健全な人の話をしよう。
慌ただしくて色々な仕事をしている人。土木工事をしながら資格の勉強をする人。
1日のほぼ全てを受験勉強に捧げる受験生。
彼らは忙しくて忙しくて、「不幸だ」と嘆く暇なんてどこにもないのではないか。
人が感傷に浸るとき、悲しみにくれるとき、自分の不幸を嘆くとき。
そのどれもが、—誤解を恐れずに言うなら—ヒマなのではないか。
両手が空いているから頭を抱える余裕が生まれるのであって、
忙しくて両手が塞がっていれば頭を抱えるヒマなんてない。
忙しい人が幸せなのかどうかは置いといて、
忙しさには不幸を吹き飛ばす力があるのかなぁと最近思う。
ただし、「身内の不幸」という言葉があるが、確かに人が死ぬのは不幸だ。
そこには僕の「忙しさ」の理論なんて及びもつかないほどの不幸がある。
もちろん逆手をとって「暇人は不幸」だなんて言ったら
それは僕の言いたいことから大幅にそれてしまうけれど、
忙しいさから発生する「充足感」これが肝要だ。
不幸の反対を幸福に据え、これらを対極と捉えるならば、
僕にとっての幸せとは「充足」であり、不幸とは「虚無」のことだ。
さらに言えばここに「satisfy⇔empty」の対立項を重ねることも出来る。
だから、「リア充」はリアル(ネットではない現実世界)が充実している人は幸福であり、人の死で得られる虚無感に人は只々立ち尽くすしかないのだ。
冬の電車。
暖房がかった車内は人の気持ちも少し高揚させる。
うわずった声でスノボ旅行の計画を練る大学生たち。
去年の忘年会の思い出話で笑う社会人たち。
大学に入ったらどんな部活をするか、アルバイトをするか今から話し合う高校生たち。
一様に忙しそうな人たちが、幸せそうにも見えた。