怒るということ
怒りっぽい人もいればそうでない人もいるだろうが、何事も穏便に、角を立てずに生きればそれで正しいのかと言えばそうではない。学校でも会社でも怒るタイミングで怒らなければプライドが傷ついたり人になめられたりする。
僕は短気な父と暢気な母の間に生まれたが、自分は短気だと思う。電車で隣の座席の人がガムを噛んでいる音を聞いていると鞄を床に叩き付けたくなるし、嫌みを言われれば「もっかい言ってみろ!!」と怒鳴りたくなる。絶対やらないけどね。
ちなみに妹も短気のように見える。短気というのはつまり平時から怒りの沸点ポイントが短いということだ。馬鹿にされたり低く見積もられたり、あるいは理不尽な状況に置かれたりすると頭にくる。
しかし、怒るということとそれを表に出すということは別問題である。たしかに短気というのは怒りをすぐに表に出す人を言うのだろうが、僕(あるいは妹)は、怒りの沸点が低いわりにはそれを表に出さない。だから周りからすれば、まぁ、暢気にも見えるのだろうが実のところそうではない、と、思う。
協調性を重んじ、場の空気を平穏に保つことを良しとする日本文化では、あからさまに「このやろう!」と怒るのは難しいことだ。でも、だからこそ怒るところでは怒らなければならない。難しいけどね。やっぱり。
冒頭でも触れたとおり、短気な父と暢気な母と育った僕としては、人が怒る気配みたいなものに対してすごく敏感で、そういう気配を察知すると何とかしてそれを鎮めようとする癖ができてしまった。
同じく空間にイライラしている人がいる。という環境。
誰だって嫌に決まっているけれど、僕は人以上にそれが嫌いで、いち早くそこを脱出するか、迅速に対応して状況を修復しようとする。それは意識的にしようとしているのではなく、雨が降ったら水たまりが出来るくらい自然なことなのだ。
- 作者: 小池龍之介
- 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
- 発売日: 2009/01/18
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 10人 クリック: 111回
- この商品を含むブログ (23件) を見る
「怒っている人というのは、状況をうまく整理できていない人なのよ」というのはある有名なブロガーの言葉だったけれど、なるほどなーと思った。
そして、穏やかな人の周りに人が沢山いて、怒りっぽい人は孤立するのかと言うとそうでもない。このあたりがおもしろいと思う。
よくないのは、怒りをためることだ。怒りをためるということは、いちいち怒りを水に流さずに蓄積させているということで、つまりその怒りはいつか爆発する運命にある。
例えば男女関係において、女が男にたいして細かい不満を飲み込んで生きてきて、あるとき一気にそれを爆発させる。「なんなのよ!いつもいつも!いい加減にしてよ!何回我慢したと思ってんのよ!あのときもそうだったじゃない!その前もそうだったじゃない!」なんて言われても男のほうはびっくりする。「じゃあその時に言っておくれよ...」という気持ちがふつふつと沸いてくる。
そう、言わないと伝わらない事も多い。とくに対人の不満に際しては「こんちくしょう」と思ったらそう伝えたほうがいい。もちろん嫌なことを直接ぶつけなくても、それとなく反省を促したり人づてに伝えたりと方法はいくらでもあるが、これはちょっと難易度が高いので、とにかく嫌な事があったら伝えること!
「今のは傷ついた」
「なんでそういうこというの?気分悪いわ」
「その冗談ぜんぜん笑えないし失礼だよ」
などなど。
怒ればもちろん角が立つし、向こうがそういうつもりで無ければないほど場の雰囲気は「あ....ごめん」みたいな感じでしらける。関係が壊れそうになるかもしれない。
でも本音を伝えた程度で壊れてしまうような関係なら壊れちまったほうが良いと僕は思うし、その時場の雰囲気が悪くなっても人生単位で見れば結果オーライになることが多いのではないか。
とにかく現代人は本音を隠しすぎている。不満や怒りだと尚更表に出さないし、しかもそれが大人であるかのような意識すら持っている。そのくせ本当はそれを察して欲しそうにそわそわして、それにも気付かないと突然「キレる」とっても迷惑だ。
「ざけんな!」と思ったら伝えてしまったほうがいい。あとあとの関係のためにも。男女関係にも言えることだけど。忍耐・我慢はまた別のお話。重ね重ねになるけど、本音を伝えて壊れてしまうような関係だったら、さっさと壊して切り捨てたほうがいいよ。