耳のはなし
今日は馬鹿な話じゃなくてむつかしい話をしまーす!(おっぺけぺー!)
☆
耳はマイナーだと思う。
目を整形する人や、鼻の高さを気にする人はいても、耳の形にコンプレックスを抱いている人というのは少ない感じがする。(身体コンプレックス - 襟を立てた少年)
そもそも、耳には実態がない。
目は眼球のことだし、鼻は顔の中心にある突起状の物体だが、耳とは要するに穴のことだ。そこには「耳」という物体はないのだ。つまり、それはドーナツの穴のようなものなのかもしれない。
「いや、それはおかしい。耳はちゃんとあるよ。顔の両側に羽のように生えてるじゃないか」と異を唱える人がいる。
そう、あれはまごうことなく耳と呼ばれるけれど、
医学的にはあれは飾りであって耳そのものとはいえない。
あの魅惑的な形状の突起はあくまで耳の象徴にすぎず、耳の本質を捉えてはいない。
耳の本質を捉えられない人は、「学校の授業が将来何の役に立つんだ」と言う人であり、女の嘘に気付けない人であり、男の見栄を理解出来ない人である。常に表面だけを見ていれば本質を捉えることは出来ない。
もう少しわかりやすく説明する。
目が悪い人は眼球に問題があり、それによって視力に障害を持った人のことだ。
頭が悪い人は脳の回転が遅かったりして、要するに脳の発達や瞬発力に問題がある。
では「耳が悪い」というのはどういうことなのか。
「耳が悪い」というのはあくまで耳の穴の中にある聴覚器官に問題があるのであって、あの突起状の物体にイボが出来たとか、膿んだとか、そういうことではない。
つまり、耳にはふたつの意味があり、ひとつは「外側に飛び出ている対の突起」のことであり、ひとつは「聴覚を司る内臓器官」のことなのである。我々はほとんど無意識的にこの二つを混同して多用し、象徴と本質の間に掛かる橋を行ったり来たりしていることになる。
冒頭で(おっぺけぺーの後ね)「耳はマイナーである」と断言したけれど(もちろん耳はメジャーだ!という人もいてもいい。過激メジャー派はどうかこのブログを炎上させないでね)、人の顔を印象づけるのに、耳はあまり役になっていない感じがする。
つまり耳が人に与える印象は、他の部位に比べて極端に低い。生田斗真の鼻が好きな人や大沢たかおの目が好きな人はいても、だれそれの耳が好きという人は瑛太好き以外にはあまり見受けられない。
しかし面白いことに耳は非常に個人的なもので、指紋と同じくしてこの世で同じ耳はひとつとしてない。自分と全く同じ形の耳というのはどこにも存在しないらしい。
つまり原理的には耳は指紋と同じ素質を持っていることになる。
これについて面白い話がある。
「耳紋」である。その名の通り、耳を指紋と同じように個人を特定するために活用するということだが、これが多くの空き巣検挙に貢献しているのだ。
空き巣は空き家に入る前に必ずドアに耳をあて、中に人がいるかどうかを確認する。
だからドアの前でかがんだくらいの位置で検査をすれば指紋のように耳の跡を見つけることが出来るというのだ。
アパートとかになると同じフロアの全てのドアに同じ耳の跡が付いているということで「このアパートは空き巣に狙われている!」ということが事前に判って、あくる日周辺で出没した不審者の耳を調べたところドアの耳紋と一致した、ということだ。
以上のように耳は本質的ではなく、どちらかと言えば象徴的で、それ故に人の視覚的特徴の一旦は担えず、そのわりに非常に個人的でプライベート的な部位だということがお判り頂けたと思う。
こういう風に考えて人の耳を見比べてみると、あまりにも形が違っているのでびっくりすると思う。耳はとても個性的なものだ。
超キュートで最高の形の耳を持つ不細工な女性が活躍するお話が読みたい人には「羊を巡る冒険」という小説がおすすめです。
ちょっと耳掃除したくなった?
おしまい