人生の師にあえて本当によかった
大学時代の一番の悩みといえば、尊敬できる師がいなかったことだ。
友達に恵まれて、学校とかバイト先とか恋愛とか、なんでも環境が良くて恵まれていたんだけど、"こんな人になりたい"って思えるような先生に出会えなかった。
自分より圧倒的に技術とか知識とか、あるいは心とでも呼ぶべきものを持った人が自分のことを叱ってくれたり見守ってくれたりする。そういうものへの憧れが強かった。
大学3年生になって僕は写真スタジオで働くことになるんだけど、そこで僕は初めて尊敬できる師匠に出会えた。これは本当に僕にとって光明だった。
例えばライティングボックスのコンセントを引っ張って抜く。するとすげえ怒られる。なんで根元からきちんと抜かないんだって。くどくどと真剣に怒られる。
それにびっくりする。こんなに真剣に叱ってくれる人がいるのかと。感動した。
"あんたは怒られてる今でも、たかだかコンセントだろって思ってるかもしれない。でもあんたがやるミスは全部そういうことなんだよ。ふとペンたてを倒しちゃうのも物を落とすのも忘れ物するのも、全部そう。数歩歩いてしゃがんで、丁寧にコンセントを抜くっていうことがあんたには決定的に足りてないんだ。"みたいなことを言われたのだ。
それで僕はその先も数え切れないくらい叱られて成長させてもらったんだけど、なんていうんだろう、そういう人のありがたさというか、心強さ。
「本当に迷ったりわからなくなったらこの人にきけばいい」って表現すると受動的でよくないけど、とにかく心強くてさ。
今日はその師匠とご飯を食べに行っていろんな話をした。
それで相談させて貰ったりして、またすごい勉強になったんだ。今日僕が得たことを数点書いてみる。あ、ちなみにこれは師匠に言われたんじゃなくて話している中で自分で勝手に掴んだことだからね。
1.人間関係で悩んだら
そしたら人に相談しない。"あいつがむかつく""あいつの考えてることがわからない"とか、まぁなんでもいいけど三人称に対して別の誰かに相談しても仕方がない。
"あいつ"について私とあなたで話しても、話の俎上に出てくるのは"わたしにとってのあいつ"であり、"あなたから見えているあいつ"に過ぎず、結局意味がない。なんとなく一面的でずれた"あいつ像"を抱えて話し合うからずれた結論しか出なかったりする。だいたい人のことで悩んで話してるのに本人がいないってどーよ。
本人と話せ。面倒臭いし傷つくかもしれないけれど、本人と話すことでしか解決はない。
そこはこないだそういうことがあって、反省してるんだ。僕はパニックになったときにとにかく主観的になるために人に相談するところがあるからさ。
2.自分のことで悩んだら
人に相談しろ。自分のことを客観的に見てくれるのは他人しかいない。客観的になれだなんてよく言うけれど、自分はここにいるので客観的になるなんてのは無理な話だ。
でも自分以外の誰かと話せば話すほどいろんな自分が見えてきて、なんとなく解決しちゃったりするんだ。話をしてくれる人のいることのありがたさだな。
3.優しい人になりたい人は
Twitterでつぶやいたんだけど、真に優しい人っていうのは想像力が豊かなんだと思う。相手のことをあれこれ想像して想像して行動するから、優しさなんだね。
世の中には僕みたいななんとなく優しい人が多いけれど、これは本当は優しさなんかじゃなくて弱さなんだと思う。
弱い人って臆病だからさ、むやみに人を傷つけないし、ことを荒立てないじゃない?そういう人は優しいふうに見えがちだけど、勘違いしちゃいけない。想像力で行動しているわけじゃないから唐突に人を傷つけたり身勝手に振る舞うこともある。
BUMP OF CHICKENの藤原が昔言ってたんだ。「優しくなりたいと願う人は、優しい人だと思います。」って。そうなんだろうか。僕は今、真に優しい人になりたい。
そのためには想像力がなければならない。
人の良いところが金脈のようなものなのだとしたら、師匠は僕の金脈をだいたいのところまで言い当てて、つま先でコツコツとそこを蹴って「このへんを掘ってみろ」と言う。僕は自力でそこを掘って、金脈を出会う。それはやはり金をそのまま渡されるんじゃなくて、自分の金脈を自分で見つけたわけだからすごく嬉しい。それに自分のためにもなる。
このところ自分が擦れていたと思う。自信がなくなっちゃってたとも言い換えられるかもしれない。最近の文章を見返しても「誤解を恐れずに言うなら」「今思いついただけだけど」「僕としてはこう思う」っていうような保身臭い言い回しばかり。
今日は師匠とあってすっかり心が晴れた。新しい金脈も掘ることができた。
ほんとうに清々しい気分だ。感謝しなければならない。
今すごく自分自信を持てている。それは人がどうこうじゃなくて、とにかく自分だ。