なぜ自己紹介で「好きなものはカレーです」がまかり通るのか
書きたいことがあってブログの画面開いたけど全然まとまらないけど、何かしらで吐き出さないと消えて無くなってしまうのでここに書きなぐっておく。自分が好きなものには「ずっと好きなもの」と「今なんか好きなもの」とに分けられるけどそれをその時点で見分けることはできない(続く)
— ゆういち (@yuichi_gg) 2017年5月16日
今自分が好きなもの。って誰だってあると思うんだけど、それって「昔からずっと好きなもの」と「最近好きになったもの」があると思うんだ。
「昔からずっと好きなもの」っていうのは要するにこだわりで、こだわりって要するに執着と言える。一方で「最近好きになったもの」はこだわりでも執着でもなくて、たまたま今現在興味が湧いているもの程度の意味合いだろうから流行と言えるかもしれない。
「昔からずっと好きなもの」=執着
「最近好きになったもの」=流行
あくまで個人的な感想だけど、前者は自分と深く関わりのあるものだろうから大切にする必要があるけれど、後者は単なる流行、トレンドなのであまり深追いせずに「ああ自分は今こういうことに興味があるんだな」程度に留めておいたほうがいいと思う。具体的に言えば昔から大好きなBUMP OF CHICKENのライブに行くか迷っているのであれば行くべきだけど、今G-SHOCKの時計がやけに欲しいのであれば我慢すべきだ。
前者を「愛」後者を「流行」と呼ぶのであれば、愛は連続的で流行は分断的だと思う。愛は自分の興味の対象という域を超えて、むしろ自分とか自分らしさ、アイデンティティーに深く根付いているので切り離すことができない。それは執着と置き換えることができる。(続く)
— ゆういち (@yuichi_gg) 2017年5月16日
執着しているものは過去からずっと執着していたという歴史があるので連続的といえるけれど、一方で最近好きになったものは現在単発的偶発的に興味を持ったものなので分断的と言えるかもしれない。
「昔からずっと好きなもの」=執着=連続的=愛?
「最近好きになったもの」=流行=分断的=恋?
執着していた恋人を失って「体の一部を失ったような喪失感」を感じたり「半身をもがれたような痛み」を感じるのは対象が自分の一部として根付いてしまっているからではないだろうか。じゃあ根付いているってどういうことなのかというと自分を表す要素のひとつに組み込まれているってことだな。(続く)
— ゆういち (@yuichi_gg) 2017年5月16日
愛だの恋だのは半分冗談だけど、例えばすごい執着していた恋人と別れた時に「胸に穴が空いたような喪失感」を味わったり「半身をもがれたような痛み」を感じるのは、それが自分の一部になっていたからではないか。
執着しているかどうか(愛しているかどうか)は自分の一部になっているかで測ることができるのかもしれない。
学校の転校生が「鈴木です。東京からきました。好きなものは金木犀としろくまとスヌーピーです。」と自己紹介するのは自分の執着を提示することでアイデンティティーを表現するためだな?だから逆に言えば執着を提示せずに(好きなものを言わずに)自分を説明すると自ずと数字的な表現になるんだろうな
— ゆういち (@yuichi_gg) 2017年5月16日
僕は金木犀としろくまとスヌーピーを愛している。僕は6年間同じ金木犀の香水を使い続け、上野動物公園のしろくまを2時間眺め続けて他は何も見ずに帰り、スヌーピーの誕生日にシアトルに行ってあらゆるスヌーピーグッズを爆買いする。
こういった執着はもはや自分とは切っては切り離せない関係性に組み込まれているので、完全に客観視して語ることができない。
学校の転校生が「鈴木です。東京からきました。好きなものは金木犀としろくまとスヌーピーです。」と自己紹介するのは自分の執着を提示することでアイデンティティーを表現するためだな?だから逆に言えば執着を提示せずに(好きなものを言わずに)自分を説明すると自ずと数字的な表現になるんだろうな
— ゆういち (@yuichi_gg) 2017年5月16日
よく自己紹介で「好きな食べ物はカレーです」なんて言ったりするけど、好きなものがカレーって厳密には自己紹介とは言えないじゃないですか。
自己の紹介なわけだから、自分という個そのものに関する情報を供述すべきであって、その個の興味の対象は自己紹介には含まれないという考え方はありうる。カレーが好きだなんて言う暇があったら身長体重、国籍、使用言語、BMIを語れよ、という考え方だ。ところが実際には自己紹介では「好きな食べ物はカレーです」が許される。
むしろお前のBMIなんてどうでもいいから好きなもの教えろよという空気すらある。
だから個人の執着っていうのは個人のアイデンティティーに深く根付いているので自分とはどんな人間なのかについて考えるときに執着の対象について考えるのは有効だということを言いたかった。
おしまい。