やっぱり社会の歯車にはなりたくない
社会の歯車とは
会社での残業時間が90時間くらいになったので(?)「社会の歯車」をテーマに記事を書こうと決めていた金曜日。
ひとまず、社会の歯車って何なのか他の人の文章を読んでみたくてgoogleの検索窓に「社会の歯車」と入力してみた。
「社会の歯車になりたくないって どうあがいてもアナタ社会の歯車ですよ」
というはてなブログの記事がトップに出てきた。
「うわークソムカつくタイトルだなぁ」と思って開いてみたら
自分のブログだったよね。
これ書いたわ。
確かに。はい書きました。1年半くらい前に。
この時僕が言いたかったのは確かこんなことだった。
人は一人で生まれてくる訳ではないことからわかるように一人で生きることはできない。要は人は人なしで生きることができない。
生まれた瞬間から何かしらの社会に属し、家族や学校や国の中で育ち、社会の中で生きていかざるを得ない。
歯車、なんてものがそもそも存在しなかった昔であれば、社会の歯車にならない生き方もあったかもしれぬ。例えば海岸に住んで、一人ぼっちで魚をとって木ノ実を貪って生活することが出来たかもしれない。
しかし僕たちはすでに産業革命以後の世界、つまり比喩的に言えば歯車によって発展して支えられてきた社会に生きている。
だから、という訳ではないが、まあ常識的に考えて今この世界で隔絶した地域で魚と木ノ実で生きて行くのは非常に難しいだろう。
医者になろうが大統領になろうがホームレスになろうがやはり大きな目線で見れば人は社会の歯車である。一例を挙げればコンビニで108円のガムを買うだけで8円が消費税として国に納められており、国という社会のシステムに参画していることになるのではないか。
そうそう、こんなことを書いた気がする。
それでも。
それでも僕は社会の歯車になりたくない。
1年半の年を経て僕は社会の歯車というワードにちょっと違うニュアンスを感じるようになった。それは一言で表現すると「主体性の喪失」だ。
そういった意味で僕は多分1年半前のブログで誤ったことを書いている。
誤ったというか、意見として、読み物としては間違っていないが、社会の歯車という解釈に対してちょっと誤謬を含んだまま記事を進行していたことを告白しなければならない。
このあたりについてはgoogleで検索して他の記事をみてみても同じ誤謬を含んだ記事は散見するのだけれど、社会の歯車になるというのは特定の、人が集まっているところに参加して何かをするということではない。
社会の歯車になるというのは自分で考えなくなるということだ。
僕が「主体性の喪失」と表現したように、社会の中で上から言われたこと、あるいは集団の中で守らなければならなことに従い続けるあまり、それを遂行するだけが善になってしまい、結果として指示待ち人間になったり、奴隷のような生活、生活パターンを強いられることになる。
例えば僕はデザイナーで、ここは赤より青がいいだの、四角より丸の方がいいだの酔いながら新しい価値を創造するのが仕事なのだけれど、忙しすぎる時は新しい価値を創造するなんてことは頭からすっ飛んでいる。
忙しすぎて「お」と打つだけで「日頃よりお世話になっております。表題の件について修正させて戴きましたのでお手数ですがご確認のほどよろしくお願いいたいします。」と出てくる予測変換を作った。
あまりにも仕事が多いと目の前の仕事を倒すことで精一杯なので、「終わらせる」「ミスしない」「軋轢を生まない」ことのみが使命になり、結果として主体性を喪失する。絶対赤がいい部分についてお客が「青にしてよ」と言われたら、元気があるときなら「いやちょっと待ってくださいよ。デザイナーとして赤がいいと思います!」と言い返せるだろうが........。
仕事に押しつぶされていると「はい喜んで」しか言えなくなる。
右向けと言われて右を向き、左向けと言われれば左を向く。
そういう状況ならそういう風に合わせることも大事だろう。ここは日本なんだし。しかしそれに付き合っている状況に「本当はこれおかしいよね」っていう問題意識は持ち続けたいと思う。
それすらなくなったとき僕は本当の意味で「社会の歯車」になるんだろうなぁ。
とそんなことを思った。
おしまい