鈴木ユートピア

31歳、写真、キャンプ、バイク、旅

東日本大震災の思い出 後編 (参加者編)

 

 

「がんばろう東北」なんていうクソみたいなフレーズは東京で掲げられているだけで宮城では一度も目にしなかった。被災している人に、どういう神経で「がんばろう」だなんて言えるのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

2011年5月中旬、コンビニで深夜バスのチケットを購入した。

新宿駅から仙台駅まで5000円くらいだったと思う。

 

 

夜の22時ごろにバスに乗り込んだ。

今になって思えば一緒にバスに乗り込んだ人にも様々な事情があり、いろんな思いを乗せたバスだったのだろうと思う。

被災地ボランティアとして現地でお手伝いをしに行く。そういう目的で遠くに行くのは初めてだった。遠くに行くのに旅行じゃない。娯楽じゃない。そういう意識がやけに強くて、慣れない地に行くというのに心はどこか冷めていた。

 

 

ボランティアの情報はネットで調べた。

ボランティアの人が別々のところから無計画に来てもむしろ邪魔になってしまうので、そうならないようにボランティアの派遣を管理しているところがある。

いわば交通整備のようなもので、助けが必要な情報がそこに寄せられ、適任者をその場にいるボランティアスタッフで編成して出張する。その中で例えば看護師の資格があったり、トラックで来ている人間はそういう仕事が割り振られるようになっていた。

 

 

 

早朝仙台に着く。

どれだけ酷いことになっているだろう、と随分覚悟してバスを降りたが、

想像していたような地震の傷跡はどこにもなかった。ビルの窓ガラスは飛び散っていなかったし、道路の地割れもなかった。本当にここは仙台なんだろうか?と僕は思った。

 

近くのカフェで時間を潰したあとで、ボランティアの本部のある街へ行くバスのチケットを購入した。この本部の場所が定かではないのだけれど、多賀城とかそっちのほうだったと思う。

 

バスが出るまでの時間をロフトで潰した。

ロフトが普通に営業していることにも驚きだったが、香水コーナーで女子大生がお喋りしているのにも驚いた。僕は散々テレビの中で仮設住宅で暮らす人々やがれきの中で毛布を被る人の姿を見ていたので拍子抜けしてしまった。

 

本当にここで地震があったのだろうか?

 

僕はなんだか、テレビが何か大げさにニュースを伝えているような気にすらなってきた。そんな半信半疑の状態でバスに乗り込む。

バスで2時間以上揺られた。

 

車窓からの景色から仙台の都会っぽい色が抜けていくあたりでバスの運転手からアナウンスがあった。「この先地割れ等の影響があるため悪路に入ります。普段より減速して進行するため到着が遅れる可能性があります。」

バスから道路を見下ろすと成程ところどころアスファルトに亀裂が入っている。

 

そして、やたら自衛隊の迷彩柄の車両が目に付くようになってきた。

あちこちの空地に自衛隊のトラックが止まっていて、物資のようなものが荷下ろしされている。

 

 

そんな景色を眺めているうちに目的地についた。

このバスに乗っていた人はボランティアの人が多いようで、みんなでぞろぞろとボランティア本部に向かった。

 

 

 

 

ボランティア本部は広い原っぱにあった。

 

 

ボランティアの人たちの車両が原っぱのあちこちに無造作に駐車されているのを横目にみんなについていった。

本部についてまず自分の情報を紙に書き込む。これでボランティアスタッフの一員として計上されることになる。

 

ボランティアの募集がかかるとその場で適任の人員が手を挙げて、その場でチームを編成して現場へ赴く。だからその本部の前にいさえすれば勝手に仕事が降ってくるような具合だった。

 

ボランティア登録を済ませた女の人が、本部を背景に自撮りをしているのを見て無性に腹が立った。なぜ腹が立ったんだろう。「ボランティアしてきた自分」を証拠として残そうとしている彼女、を勝手に想像したからかもしれない。

そして、僕自身そうだったらどうしようと思うと不安があった。僕はどうしてここにいるのか。ただの興味本位じゃないと証明できるのか?傍観者じゃないと自分に言い聞かせたかっただけなのではないのか?

 

そういったことは散々行きのバスで自問自答したことだった。

 

僕が出した答えはとにかく、「僕が行けばボランティアが1人増える。行かなければ1人は増えない」というシンプルなものだった。理由なんか関係なく、行けば何かの助けになるかもしれない。それ以上思い悩むのは誰の役にも立たないのだ。

 

 

 

最初の仕事は畳出しという作業だった。

というか、肉体労働であれば畳出しを振られる可能性が高い。

これは要は倒壊したり人が出ていった家の家具や家財を家から運び出す作業だった。

最後は畳もはがして中を空っぽにしてから取り潰す段取りのようだった。

 

 

引っ越し屋の人たちのチームに加わる形で編成が決まった。

「東京からわざわざ来たのか!偉いなぁ」とリーダーが褒めてくれた。

 

 

ハイエースで現場に向かう。半壊した木工の住居だった。

そこの住人の方が「どうぞよろしくお願いします」と頭を下げた。

 

 

 

 

 

 

家の中は滅茶苦茶だった。

何もかも泥だらけで、水を吸って重たかった。

 

 

肉体労働として過酷だったというのもあるが、それよりはるかに辛かったのは住んでいた方の孫のものなのか、算数ドリルや日記が出てきたことだった。

 

それをひたすら運び出して、地震がいかに躊躇なく人の日常を奪うのかというのを痛感した。それはロフトで見た女性大生の姿とセットで強烈に僕の中に焼き付いていて、災害は突然やってきて、「自分にはまさか起こらないだろう」と思っているような人にも平然と降りかかってくるのだと思い知らされた。

 

 

こんな具合に僕はボランティアを1週間こなした。

 

 

あるときは製紙工場が津波の被害で駄目になってしまい、中にあった大量の紙が溢れて街中に散乱していた現場があった。まるで大雪があった後にみたいにそこかしこが真っ白で、みんなで雪かきをつかって水を含んだトイレットペーパーのような紙を掬っては捨てた。黙々と作業を続けた。

 

 

最初はいちいち仙台駅に戻ってカラオケで寝ていたりしていたのだけれど、交通時間と運賃がもったいないのでボランティア本部のそばで野宿するようになった。

4月でも宮城は冷える。鉄塔の下でブルーシートにくるまって震えながら眠った。

 

 

 

 

 

そうこうしているうちに1週間で金が尽きて帰ることになった。

一度も風呂に入らなかったのですごく汚かったと思う。

東京に戻ってほどなくして大学が再開された。僕はいつもの日常に戻った。

 

被災地に行った話はあまり人にしなかった。

それを人にしてしまったら、人に話すために被災地に行ったことになってしまうような気がして、それがたまらなく嫌で、怖かったのだとおもう。

 

 

 

ボランティアで僕がしたことはちっぽけで、いてもいなくても同じようなものだったのかもしれないが、日本で災害があって、ボランティアの募集があったときに自分なりに考えて役に立とうと動くことができた、という体験は自分にとって大切な自信になった。

 

 

 

 

あれから7年が経った。

「忘れないで」なんて大きなお世話だ。

泥だらけの算数ドリルをシャベルで掬ったときの気持ちが今でもフラッシュバックして頭から離れずにいる。