思い描いたように描けるようになるために練習するのだ
思い描いたように描けるようになるために練習するのだ
思い描いたように描けるようになるために練習するのだ
— ゆういち (@yuichi_gg) 2018年5月10日
昨日は会社から帰ってからイラストを描きたくなって
スケッチブックと鉛筆を引っ張り出して絵を描いた。
びっくりするほど上手く書けなかったからここには出さない。
イラストは鉛筆を使うに限る。
黒鉛が紙の上で摩擦して削れてゆく感触がとても気持ち良い。それから単純に鉛筆の方が手の神経との親和性が高い気がして結果的に上手に描ける気がする。
それにしても、もっと上手く描けると思った。
イラストを描くときは完成図がある程度頭に思い浮かんでいる。それで、そういう風に描こうと思って鉛筆を握る。しかし実際にやってみると思うようにいかない。頭の中に映像はあるのに、どうしてそれを実現することが出来ないんだろう?
サッカーの中継を見ていると「なんだよーもっと上手くやれよー!」って思う。何なら変わってやって自分が蹴ってやろうかなんて思ったりする。でも実際にサッカーをやったら小学生より酷いプレーをするだろう。プロの試合って見ればみるほど自分でも出来るような気持ちになってしまう。あれは錯覚なんだろうな。
イラストを描いて思った感覚は、「思い描いたものを差異なく描くことが出来たらいいな」というものだった。そして、それって絵だけじゃなくて、割と広範囲で使える考え方なんじゃないかな。
ゴルフとか。やたら遠くからクラブを振って、ホールのギリギリまでボールを寄せるのって何度も練習しないと無理なんだろうなぁって思う。やっぱりプロは"このくらいの力で打てばこうなる"っていうのが頭の中にあって、あとはその通りに実行しているだけなんだろうな。
サッカーもゴルフも野球も、練習を重ねた人は「ここ」と思い描いたところにピタリと飛ばせる。それはなんでもそうなんだと思うー
— ゆういち (@yuichi_gg) 2018年5月10日
つまりは練習っていうのは思い描いた「理想」と、実際に起こる「現実」の誤差を埋めるための果てのない作業なんじゃないかと思う。プロゴルファーだって毎回完全なショットを打っているわけじゃない。ジュニアだったら毎年体格が変わっていくことで身体の感覚も変わってくる。大人になれば今度は身体の劣化もある。つまり100%というのは存在しない。どんなプロでも99.9%が限界で、つまりは100%にどれだけ近づけるかっていう問題なのだろう。