鈴木ユートピア

31歳、写真、キャンプ、バイク、旅

あなたはどっち?小説を読むふたつの方法

 

 

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小説なんか何の役にも立たない。

本を読むなら学術書を読め。

 

なるほど、と思う。

しかし、とも思う。

 

人生の最後の一日になったときに、

「葬儀のハウツー」みたいな本を読むよりは、

「星のおうじさま」とかを読んでいたい。

 

と思うのはわりと普通の感覚なんじゃないのかと思う。

 

 

 

 

 

「本を読むという行為は、他人に代わりに考えてもらうということである。」

という名言を誰が残したのかは覚えていないが、全くその通りだ。

 

 

 

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スマートフォンがアプリをインストールしたみたいにそこに書いてあることを

理解できるわけではないし、「理解したつもりになっていたけど全然解ってなかった」という事態はそこから起因しているのだろうと思う。

 

 

 

僕がこうして下手なりに文章を書いていられるのは、

学術書で「文章を書くこと」を練習したからではなく、小説をいっぱい読んだからだ。

 

それで、「自分の頭の中にある伝えたいことを相手にわかってもらうにはどうしたらいいのか」という命題にひたすら対峙し続けた。あるいは今も対峙しているのだ。

 

あることを伝えたいと強く思う。それがコミュニケーションの起こりだ。

 

例えば、僕が「日本語が話せるって究極のアドバンテージだ!」って言いたいとすれば、それを色々工夫して文章におこしていく。たとえ話をするのがいいのか、何かを批判して、そこから対比していくのか。誰にでもある体験談から共感を集めるのか。

 

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(前話http://andy0330.hatenablog.com/entry/2013/11/28/004101

僕が批判した最低の絵)

 

 

 

くどいけど、全ては小説から習った。断じてそれは学術書ではないのだ。

もちろん学術書も最近はかなり読む。読むけれどかなりへたくそだと思う。

 

学術書は小説と全く別物だからだ。僕は小説を読むのがとても早い。

それは数をこなしてきたからで、要するに慣れである。

設計士が目をつむっても直線をひけたり、ピアニストが何となくでチューニングできるのと同じだ。

 

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そのノリで学術書を読んでしまうと、全く理解できない。

小説みたいに読むと、結局のところ頭に入ってこない。

ここに僕の小説を読むメカニズムの根本がある。

 

 

ようやくここで題目に入る。

 

小説を読むふたつの方法

 

僕の凡庸な持論にすぎないのだけれど、

小説の読み方にはふた通りある。

ふた通り、しかない。

 

これは誰もが無意識的に行っていることで、

つまり先天的なことなので、あとからはどうすることもできない。

右利きと左利きのようなものだ。

 

・ひとつは、文章の情景を映像で思い浮かべる方法。

例えば二人が話しているシーンがあったとしたら、その情景を思い浮かべる。

そこがどんな場所でどんな人なのか。どんな表情で話しているのか。

 

・そしてもうひとつは、文章を音で思い浮かべる方法。

文章として書かれている事柄が音として入ってくるのだ。

二人の喋っている声や、その場の雑踏の音が、まるでラジオドラマみたいに

耳に流れ込んでくる。

 

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あなたはどっちだろうか?

多分だけど、前者の「小説を見る」人なんじゃないだろうか。

 

 

右利き左利きのように、

どちらが正しいということでも、どちらが優れているということでもない。

しかし、世の中の95%が右利きであり、それ故に大抵の物は右利きの人のための形になっているのは事実だし、スポーツでは左利きの少なさ故に左利きはとても有利だ。

 

それと同じだ。恐らくほとんどの人は小説を映像で見るが、

小説は音で聴いたほうが、「早い」のではないかと思う。

 

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僕は記憶力が悪いし、前に話したように(http://andy0330.hatenablog.com/entry/2013/11/09/000100)忘れ物を何度も繰り返す人間だが、小説を耳で「聴いている」ので小説での文章や台詞は忘れないし、大抵そらで言うことができる。

 

 

 

つまりまとめると、小説ではそれが許されるけど、学術書だとそうはいかねーぞ、ということである。学術書には「見る」能力が要求されるのだろう。

 

学術書を聴いているだけでは、授業中にノートも取らず席に座っているだけだ。

それでは折角の勉強も頭をすり抜けてしまう。

 

僕は最近学術書を読むときに、ノートをとるようにしている。

興味が湧いた箇所に付箋をつけてそれを後で書き写したり、

それに対する反証や感想を書いてみる。そうすることでようやく、

多少頭に残るようになってくる。

 

 

小説を読むのに自信がない人は、「聴く」感覚を意識してみてはどうだろう。

あるいは、学術書を読むのが苦手な人は、ノートを取ってみるといいかもしれない。