最新機種はきりがないから
物について、どんなものでも「良いもの」を追求し続ければキリがない。
最高のコーヒーを求めれば一杯5000円はくだらないだろうし、良いヘッドホンを極めれば数十万はするだろう。だから、良いものを追求する姿勢はあっても限度をわきまえなければならない。しかしそれが難しい。
自分の領域が狭いので例えが偏ってかたじけないけれど、カメラでも同じことが言える。ニコンのD3300という最新機種を買ってもその上にはD5300があり、D7100が控えており、この時点で十数万するのだけれど、D7100を買っても上にはD610があり、その上にD800があり、その上にD4sがある。
つまりキリがない。それでD4sを買えば最強なのかと言えば、重いし、信じられないくらいボタンがついていて訳が分からないし、値段を考えたら外に持ち出すのもはばかられる。だってそうだろ70万の貴重品を首からぶら下げてどこいくの?おれだったらその70万使って「写ルンです」引っさげてフランス行くわ。
(曲がりなりにもカメラマンだった僕にさえ、一瞬を切り取る道具にどうしてこれだけのボタンがついているのか理解出来ない。)
980円のイヤホンを買う。5000円のイヤホンが気になる。5000円のイヤホンを買えば幸せになれるだろうか?きっと次は1万円のイヤホンが気になっていることだろう。
誤解を恐れずに言えばお金さえ払えば良いものが買えるのは間違いない。そうだろ?OLD NAVYやしまむらの服は安いが、生地なんかぺらぺらで寒さを凌げない。お金を払うだけであったかくてオシャレでセンスの良い服が得られるのに。
でも一着2万円のTシャツを着てるヤツなんてなんだかいやみったらしいし、そんな服を着ていたらカレーも焼き肉もミートスパゲッティも食べられない。というか、服が汚れないか気になって外に出かけても楽しくないのではないか?
大切なのはそこんとこを自分と上手く折り合いをつけて、今現在自分が「持っているもの」をちゃんと好きになること。
高校生なんかはケータイが壊れると少し嬉しそうに「これで最新機種買ってもらえる!しょうがないよね、壊れちゃったんだから。」みたいなことを言う。
ケータイは悲しい。新しいものが常に正しく、古いものは格好悪い世界だ。
僕は恥ずかしながら懐古主義者であるけれども、それを差し引いても、ちょっとくらい古びても「これじゃなきゃ嫌だ」というものを一つでも持っている人は幸せだと思う。
価格と社会的価値のヒエラルキーになんか負けないこだわりが求められる。物質社会の現代では、特に。
僕がフィルムカメラを使っていると「そういう手間とかが好きなんですよね?」と言われたりするんだけど、好きだから使っているのであってそれ以上の意味はない。理屈としての好きを超えたところにある「好き」は誰にも勝てない。
自分の恋人や配偶者を思い浮かべてほしい。いないって?じゃあ親とか家族でも想像してくれ。あなたの好きなその人は、人間的にスペックが高いから好きなのだろうか?
背が高いところが好き!とか言って、じゃあその人より3cm背の高い人が現れたらそっちに心が移るのか。今好きな人よりもスタイルが良くて料理が上手くて頭の回転が早くて優しくてって人が現れて告白されたら付き合うのか。
それでも、通常の感覚を持っている人なら(そうでない人もいる)、よりスペックが高い人が現れても現在大切に思っている人を大切にしようとする。目もくれないかもしれない。そんなことない?まじか。
これは聞いていればあくびが出るほど当たり前のことかもしれないけれど、物に対する意識を考える上では非常に良い例だと思う。
1000万画素が1250万画素に!重さも65gも軽くなった!カラーバリエーションが豊富!Wi-Fi機能がついてる!
....機会さえあれば今の物を下取りに出してでも「ちょっとでも良いもの」を買おうとする。特に電化製品ではその傾向が顕著に出る。
自分が大切にしている物を思い浮かべてほしい。
そして、それよりももっと綺麗で、皆が羨んでくれて、丈夫で、高性能で、あるいは使いやすいものが目の前にあったら、それと交換するかを考えてほしい。
もしそれで「交換しない」と言えたなら、あなたはその物が理屈を超えたレベルで好きなのだ。その気持ちは、いちごのショートケーキに乗ったイチゴよりも尊いから大切にしてほしい。