鈴木ユートピア

31歳、写真、キャンプ、バイク、旅

生きることについて僕の思うところ

 
 
 
 
身近なひとが死んだことがない。
葬式は今まで2、3回ほど出た経験があるけど、あえて悪い言い方をすれば他人事だったと思う。とにかく親族が死なない。感謝すべきことだと思う。前にひい祖母さんが亡くなったが僕と血が繋がっていない。でも少し悲しかった。
 
人は必ず死ぬ。今視界に入っているひとも100年後にはほとんど誰もいない。
昔は日本人なんて40歳とか50歳で死んでいたわけで、そこで70歳とかまで生きれば大往生なんて言われたものだが、今では60で死ぬと凄まじい不運に巻き込まれたとかそういう風に思われたりする。すると僕はやはりどこかで小さな違和感を感じたりする。

長生き=幸せ という考えは世の中根強い。そんなことないかな。
意地悪な意見をするけれど、それじゃあ20歳で死んでしまった人は不幸なのだろうか。そういう要素があったとして、どうして他人が人の幸福の度合いを勝手に決められるのだろう。結局幸せというのは主観的な尺度であって、それ以上でもそれ以下でもないのではないか。
 
80歳で大病を患って、入院をして薬漬けになってチューブにつながれて2年延命できたとして、それは幸せなことなのだろうか。このあたりになると抗がん剤を投与するかどうかとか、医療的なところに僕が口出しすることになるので回避するけれど、もし僕なら(もちろん現実的にはわからない)寿命で死にたいと思う。むやみやたらと医療に頼って"生かされる"のは御免だ。
そりゃ僕にしたって実際に癌になったら慌てふためいて、1日でも長く生きるために延命治療を望むかもしれない。でもそれはなってみないとわからない。とにかく今健康で、暢気にしている僕の意見としては、という前提は忘れないでほしいけど。
 
 
 
人間を超越した何かに"生かされている"感触はずいぶん前から持っている。こういう表現をするとやたらと宗教くさいとか言われて煙たがられるので少し言い方を変えると大きな船に乗って、僕が「おれの人生だ!」といってどの方向に行こうが、それは甲板での出来事で船は着実に目的地に進んでいるというか。
この目的地っていうのはたとえば人間として予め異性に興味を持つように設計されていたり、僕が老いていくことだったり、血が出たらそこを押さえて止血しようとしたり、そういうことだ。
僕は海を眺めているときよりも川を眺めているときのほうが生死について考える。たぶん流れているからなんだと思う。みんなそれぞれ生活しているけれど、同じ方向に流れているんだっていうのを考えちゃうのは川だ。
 
 
もちろん僕にしたっていつもこんなことを考えているんじゃなくて、それこそ川辺にいった時とか、すごく疲れたときとか、あるいは幸せで仕方ないときとかに考える。生きること・死ぬことについて考えることは悪いことじゃない。
でも考えすぎると目の前の生活がおろそかになってしまうのも事実だ。
 
今やらなくちゃならないこと。今一緒にいる人との会話。
「どうせ死ぬんだし」とか考えていればそれらはすべておざなりになる。幸いそういうこ至っていないので今のところ生活に不調はない。
 
 
「死ぬときは悔いなく」とか「笑って死にたい」って聞くけど、僕にはあんまりそういう願望はない。死ぬときは死ぬでしょくらい浅い考えといえばそれまでだけど。今も生きていると思うけど言語を理解し手話で英語を話すゴリラ(名前はココだったっけ)が死ってどういうものなのって聞かれたときに"Confortable hole, bye"って答えたのがすごく印象的だった。"苦しみのない穴へ、さようなら"という意味だ。
 
僕は肺気穴という軽度の病を持っていて、たまに肺が痛んで呼吸がままならないことがあるけれど、やっぱり呼吸が苦しいっていうのは結構恐怖だ。
もう何年もこれと付き合っているので呼吸がうまくできない時間の耐え方はよく心得ているつもりだけれど、僕が日常の中で死を意識しているのはこの時間かなと思う。それに、さすがにまだ病に感謝するほど達観はしていないけれど、この病のおかげで死を意識して、同時に生きていると感じることができると思っている。
 
 
 
 
 
生きることよりも死ぬことについてだらだら書いてしまった気がする。
僕は満たされすぎて「今死んでもいいな」と思えることがこれまでに1度だけあった。そこまで極端じゃなくてもいいから、死ぬまでにそういう体験をしていければそれが僕にとって生きた甲斐って言えるものだと思う。
本当はもっと「社会に貢献するため」とか「誰かを幸せにする云々」っていえれば格好がつくというか、話に深みが出るのだけれど今僕が本音でなるべく書くのだとしたらこのくらいが妥当かなって思っている。