鈴木ユートピア

31歳、写真、キャンプ、バイク、旅

2022年の態度

 

2022年が終わる。年の瀬らしく今年一年に思いを馳せていた。

 

今年は元々、謙虚に行くつもりだった。

 

僕は自己評価として、面白いものを見つけると興奮して一人で突っ走ってしまうところがあるから、それで周りの人をおざなりにしたり、人の気持ちを置き去りにしているのではないかという反省が、実はかねてよりあった。それで、いい歳になったのだし、今年は周りに気を配って、人と思いや意見が違っても、自分が間違っているかもしれないという視点を持つように心がけた。

そういうわけで、今年一年は「最悪だな」と思いながら「素晴らしいですね」と言ったり、まるで納得いってないのに「なるほどなあ」と迎合する機会が結構あった。そういうやり方が、かなり自分に合わなかったなぁ。ということが発見できただけでも、収穫だったのではないかと思っている。

 

今年はそういうわけで人の気持ちを優先するあまりに自分を蔑ろにするシーンが少なくなかった。謙虚に生きて人の気持ちを考える柔和な態度は結構だが、まるでおかしいと思いながらニコニコしているのはただの「状況の奴隷」である。

 

今振り返ってみれば、怒ってよかったシーンもあったし、怒るべきシーンで怒らないと、それは相手にも伝わらないから状況は悪化するばかりだろうなと思う。とにかく、そういう反省がある。

 

ところで人とのやり取りの中で、「それはおかしいのではないか」という違和感を得ても滅多に言い出さないのは元々の僕の性分ではない。ただ大人になるとあまりにも白か黒かで決められないことが世の中には溢れかえっており、「いろんな考え方あるよねぇ」とでも言っておけば割となんとかなっちゃったりもするのが悩みどころだ。手垢のついた言葉を借りてくれば「多様性」というやつなのだろう。

 

僕は先日反ワクチンの思想が強い人がひたすらにワクチンの危険性を訴えるのに相槌を打ち続ける状況になったのだけれど、これは結構辛かった。

確かに僕は医師ではないし、ワクチンが本当のところどの程度有用なのかはわからない。その人が熱弁していたように国家ぐるみの陰謀である可能性を否定できるだけの知識を持ち合わせていない。

 

しかし!

反ワクチンの話は死ぬほど退屈だった。それが大罪であった。面白ければ良かった。面白ければ、それが真だろうが偽だろうが問題ではない。少なくとも僕にとっては。

やはり僕が既に3度も打ち込んだものに対して、あれこれ言われるのはやはりあまり面白くないものだ。ワクチン接種が長期的に見て人体に影響はないのか、それが国家ぐるみの犯罪なのかは今の所誰にもわからない。そういうことは数十年くらい経ってから振り返らないと評価できないものではないか?

だからこそ、反ワクチンの人の説教というのも一つの勉強として粛々と聞くべきなのだろうと判断して、彼が気持ちよさそうに話しているのを僕は「なるほどなぁ知らなかったなぁ!」とそれは見事に相槌を打っていたのだ。

こういう時に僕は自分のことを蔑ろにしていたんだなと思う。何しろその話は退屈で、僕はイーロン・マスクよりは暇だけれど、僕なりに忙しく生きているので、そこそこ時間が無駄だった。だから、せめて相手に多少の配慮はしつつも「僕はそうは思わないので、この話はそんなに聞きたくないな」くらいは言ってしまっても良かったかもしれない。そうすることでほぼ間違いなく場の空気は悪くなろうが、しかしそれは僕が我を通した代償なのだろうと思う。来年は状況の奴隷から脱却して、もう少し自分の考えや思いを優先してあげたいと思う。

 

おしまい