心の開き方
心が開いたり閉じたりする感覚ってわかるだろうか。
人に話したりすることがないから、周りの人にその感覚がわかるかどうかがわからないけれど。
開いたりっていうのは、相手に対して何でも話せるっていうのとは違うんだ。
自分に対して本音なのかどうかってことなんだ。
心って言った時に僕は水槽を思い浮かべる。
真四角で水の入った、熱帯魚でも育てるあの平凡な水槽だ。
その水が、濁ったり澄んだり、あるいは石が投げ込まれたりする。心配性な人は自分で揺すっちゃったりするんだけど。
「あぁ濁ってるなー」と自分で思った時には、あまり物事を深く考えないようにしている。どうせ悩んだって仕方がないことが多いし、深く考えたところでその間誰かを幸せにできるわけじゃないんだ。
とくに人間関係においては深く悩むっていうのは本当に意味があるのかってこのところ疑うようになった。恋愛だけじゃなくて友人関係等においても言えることだけど、
結局Aさんに対して悩んだり考え込んだりするじゃない?「この人ってどうしてこうなんだろう」「この人に嫌われたらどうしよう」とかさ。それについて悩んでるときってAさんについて悩んでいるようで、その実"私の考えるAさん"について悩んでいるのと同じことなんだわな。
Aさんはこうしている間も生きているし、成長したり気分が変わったりしているリアルな存在なわけで、それを記憶の中の虚像としての客体として観察したところで、実際には相手のことを考えていることにはならない。
だからさ、僕がちょっと前に決めたのは、「相手について一人で悩まない。悩むなら、本人と一緒に考えよう!」ってことなんだな。そしたらほら、一人で悩んでることが「意味ない」って自分で決めつけてるわけだから、そんなに悩まなくなっちゃった。アドラーの言うように「人は人間関係のことでしか悩まない」のかもしれない。
話が逸れたけど、最近心の開き方が上手になってきたんだ。
心を開くと自分の思考と精神がちゃんと一致するからすごく生き生きしてくる。なんて中村天風みたいだけど。言いたいことが言えるようになる。正直になって、嫌われるのが怖くなくなる。やりたいことがどんどん見つかるようになる。最高だ。
開きかたは当然人それぞれなんだろうけど、僕は「インプットとアウトプット」が肝要なんじゃないかと思っている。水槽の話をもう一度持ち出すと、新しい水が入るノズルと、古い水を出すノズルをつけてやるってことだ。そうすれば水が循環して水槽の中の透明度が保たれる。
具体的には、普段話さない人と話したり、普段読まないような本を読んだり。ルーティンじゃないインプットとアウトプットをやってみるってことだ。
逆に心が閉じた時は...じゃあ今度閉じたときにでも書くねw
おしまーい