インド人がハンバーグ食べたので裏切られた気持ちになった
明日同僚で飲みにいくんだけど、
急遽インド人の同僚もくることになって
僕がふと思いついて
「あ、じゃあ飲み屋も肉とか出さない方で考えないとね」
と言ったら同僚が
「いやアイツは何でも食べるし何でも飲むよ。ハンバーグとか食べるよ」
と言った。
それで僕は「そうか」と言ってそのときの会話は終わったんだけど
なぜか僕はインド人に裏切られたような気持になった。
勝手に。
調べてみたらインド人の肉食化は経済成長とグローバル化に準じて増えていて、現在のインド人の菜食主義者の割合は40%に留まっているそうだ。
なーんだそうなんだ。あ、いまの「なんだ」は「ナンだ」と掛けて言ったわけではありませんので悪しからず。
さっきの「裏切られたような気持になった」件についてなのですが、
これをもし僕がインド人、向こうが日本人だったとしたときに
僕「お前日本人なんだから納豆くうだろ」
日本人「いやーおれ納豆ダメなんだよねー。臭くて無理だわ。」
って言われたときの裏切られ感と同種であると想像した。
サッカー見ないブラジル人とかキムチ食べない韓国人とか
根暗なブラジル人とか。時間守るイタリア人なら見たことあるけどね。
でもそういうのって普通にあるじゃないですか。
僕だって日本人なのに相撲のこと全然わからないし
「やれ」って言われても出来ないし。
個人の好みとか趣向の問題でありながらそれに「裏切られた」と感じてしまう僕って頭の中で何が起こっとるんや、と疑問になった。
コード=こうでなくてはならない
今千葉雅也さんの「勉強哲学」を読んでるんだけど、その中に登場する「コード」という考え方が面白かった。
千葉雅也さんの『勉強の哲学』読んでるが、アイロニーの過剰化(超コード化)によるコードの不在化(脱コード化)。これは、言語の環境依存性を無視することによるという指摘。この辺は、ウィトゲンシュタインの言語ゲームを参照しているのかな。言葉の真の意味を求めるナンセンスに気づかされた思い。
— 青空@あおい+勉強+α (@aozora_aoi111) 2017年4月19日
僕たちが普段生きている中で漠然と横たわっているコード(こうでなくてはならない)というものが存在する。電車でみんななるべく静かにしているのも一種のコードで、「暗黙の了解」を拡大解釈したようなものかもしれない。
「インド人は敬虔なので肉は食べないのである」という僕の強い思い込みは僕の中でのコードであってあるいは世間一般ではコードたりえないのかもしれないが、少なくともインド人の彼がハンバーグを食べた瞬間にその行為は僕のコードを侵害したのである。
(当然彼は何も悪いことをしていない)
この個人的なコード、を侵害されたときに人は不快感を感じるのではないかと思う。よく人が触れてほしくないことに不本意ながら触れてしまうことを「地雷を踏む」という言い方をするが、彼は間接的に無意識的に僕の「コードを踏んだ」のである。
コードを踏まれたときに僕はその瞬間は脊髄反射的に感情的な感想を持つが、しばらくして冷静になってみると「コードを踏まれたけどこれってひょっとして僕が異端で間違っているのでは?」という疑い / 批判的な目線=アイロニーを持つことになる。
現に僕はアイロニーによってインド人の食生活についてグーグル検索をかけて冒頭の知識を得るに至ったわけで。
以上のような経路をたどって僕はコードの侵害とアイロニーによるフィードバックを繰り返してものごとを学んでいるんだなあ。とにかくインド人がハンバーグを食べるのは全然変なことじゃないし、むしろ普通のことです。
ってところまで思いついた。
オチはないぜ。
「勉強の哲学」、今むさぼるように読んでるけど
むっちゃ面白いです。ページが三色ボールペンで塗られまくってるくらい。
僕も来るべきバカのために勉強しなければ。
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