25歳から考える「学術書の読み方」
大杉漣さんの訃報にショックを受けて、震えながらはてなブログを開いた。
バイプレイヤーズにも出演した名脇役だった。ご冥福をお祈りします。
今日は、「勉強の本」の読み方について話す。
学生時代、小説が好きでたくさん本を読んでいたつもりなのに社会人になってビジネス書とか勉強の本を読んでもちっとも頭に入ってこないのが不思議で仕方がなかった
— ゆういち (@yuichi_gg) 2018年2月21日
高校時代は図書委員だったこともあって本を沢山読んだ。
お気に入りは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」。時間を忘れて小説を読んだ。
おかげで本を読むスピードと集中力には結構自信があった。
それなのに、社会人になって学術書を読むとちっとも頭に入らない。
読んでいるときは感動したり感心したりしてるんだけど、読み終わると何も残らない。
読み終わった達成感だけがそこにあったりする。
読んでるときは「ふむふむなるほど」って思って読んでるんだけど、読み終わって「どんなことが身についた?」と言われると「えーっとなんだっけ?」となってしまう。
— ゆういち (@yuichi_gg) 2018年2月21日
つまり読んじゃいないのさ。文字の表面を撫でているだけで、切り込んで潜っていない。
— ゆういち (@yuichi_gg) 2018年2月21日
僕は会社員として働くかたわら本を読み続けた。
小説は心に残り、学術書は頭に残らなかった。
これはどういうことだろう?
僕はあるとき、
学術書は、小説と同じ読み方をするものではないのでは?
という疑問に辿り着いた。そしてそれは果たして本当のことのようだった。
小説には読者を没入させる装置が入っているが、学術書にはそれがない。だから僕たちはより主体的に「読書」を「する」ことで書いてあることを身につけなければならない。出なければ大量の時間を無駄にすることになる。
— ゆういち (@yuichi_gg) 2018年2月21日
要約すると、「小説を読むように学術書を読んではいけない」ということだ。友達と話すように上司と話してはいけないし、100mを走るようなフォームでマラソンを走ってもいけない。つまり、似て非なるものなので僕たちも異なる態度で本と対峙する必要がある。
— ゆういち (@yuichi_gg) 2018年2月21日
誤解を恐れずに言うならば、小説は娯楽で、学術書はそうではない。
言い換えれば小説は人が楽しめるように作られているが、学術書は人が楽しむようには設計されていない。そこには目的の違いがはっきりと横たわっている。
見た目は同じ本で、決められた形の紙が綴じられた紙であることに代わりはないので、僕たちはこの目的の相違の部分を見落としてしまう。
結果として、遊園地に来た学生のように「楽しませてもらおうとするお客様気分」で学術書を開いてしまう。
しかし学術書は遊園地ではない。それは学校の教室である。
そういうことを僕たちはやはり学校で教わらなかった。だから自分たちで体系的に学ぶしかない。さあ、始めよう。
— ゆういち (@yuichi_gg) 2018年2月21日
本を読む態度
テレビを見るとき、僕たちはソファや椅子にもたれる。
つまり体重を後ろに預け、身体はのけぞっている。これが受動的な姿勢である。
遊園地にいるお客様気分。これから起こることに対してあくまで受け身でいる姿勢だ。
人から重大な秘密を打ち明けられるとき、僕たちは前のめりになる。
顔を前に出し、体重は前のほうに寄っている。これが積極的な態度だ。
「これテストに出るぞ」と言われた時の学生の姿勢。ノートを広げてペンを構えて、これから先生が言うことを一言も聞き逃すまいと注意する前のめりな姿勢だ。
前述したとおり、小説は人を楽しませるようにできているので、作者は工夫して読者を物語の世界に引きずり込む。この部分は作者がすべてお膳立てしてくれるのだ。
ところが学術書はそうではない。
僕たちは本の一語一語をすべて暗記することはできない。また、本に書いていることすべてが必要なこととは限らない。だから僕たちは本を読みながら自分にとって有効な部分を探し、言い換えれば取捨選択して学び取っていけなければならない。
そのためには主体的な姿勢が必要不可欠だ。
積極的な読書の勧め・僕のやり方
これはあらゆるブログについて当てはまるし、野暮なのであまり何度も言いたくはないが、勧めたことすべてがすべての人に当てはまるわけではない。僕は僕のやり方を紹介するほかないので、役に立つかどうか、自分の肌に合うかどうかを検討して実践してみてほしい。
とにかく文字を眺めるだけ、というのを避けなければならない。
注意して作者と対峙し、授業を受けるような態度で臨まなければ学術書から何かを得ることなんて出来ない。
授業を受けるときに必要なことーそれは「ノートをとること」だ。
他のサイトや本でも、学術書を読み込むときに「読書ノート」なるものを用意して、重要な部分を書き写したり、ほかのところからの引用を書きつけながら知識を身に着けるという方法が紹介されているが、僕はこれを推奨しない。
なぜならテキストとノートが別々に離れてしまうからだ。
本を捨ててしまっても問題ないほどノートの完成度が高ければ問題はないだろうが、そうでなければ僕たちは学術書を復習するときに一々本とノートを開かなければならない。そもそも読書をするときにノートも開くなんていう手間がナンセンスだ。
少なくとも僕はそんなにマメではないし、電車や寝そべっているときにちょっとした読書...という機会を奪いかねない。やはり学術書であっても本は本として完結しているべきだというのが僕の意見だ。
本をノート化して、自分だけの参考書をつくる
ではどうするのか。用意するのは本とボールペンだ。
ボールペンは色付きのものが好ましく、3色ボールペンだと尚良い。
これで本に直接書き込みながら読書をする。
本に書き込みをするのに気が進まない人は多いだろう。
謎の背徳感がある。昔から教科書に落書きをすると先生に怒られた。
テキストは大切なもの。だから汚してはいけない。そんな暗黙知がある。
僕も子供のころ図書館で借りた推理小説を開いたときに冒頭に出てきた登場人物のところにラインマーカーが引いてあって「こいつ犯人(笑)」と書いてあったときはものすごく殺気が湧いた。
そして、書き込みをしてしまうと売れなくなってしまう。
でもどうだろう。
1400円の学術書を買って、それを綺麗に読んで(読んだだけで頭には入っていない。売って手元から切り捨てるから読み返すこともできない)、売って200円になったとして何の意味があるんだろう?
それなら最初から買わないほうがましだ。
っていうか本屋で立ち読みして読破すれば無料だ。
そもそも読書という行為は金と時間を同時に消費するすごく贅沢な動作だ。
本は宝石ではないので、買って読むことで学ぶ覚悟が出来たのであれば、そのコストをすべて償却して「使い切る」覚悟で向き合ってみたらどうだろう。
といいつつ、書き込みなんてせずに綺麗に本を読んで頭にきちんと入っている博識な人はいくらでもいるので、あくまで僕のやり方では...ってことだけど。
ボールペンを構えてページをめくっていく。
この状態がすでに僕たちを遊園地から教室へと移行させていることに気づいただろうか。「どこに書き込んでやろうか」という積極的な姿勢である。極端な話この状態であればすでに何も書き込まなくても通常よりずっと本の内容が頭に入るだろう。
本を読み進めながら、興味が湧いたところや新しい知識の部分にしるしをつける。僕は線をひいたり丸をつけたりする。
それから文字を書き込む。
どんなことでもいい。僕はただ面白なぁと思ったところに「おもしろい」とか「なるほど」とだけ書いたりもする。(笑)つまり目的はまず何より本に「参加する」ことなのだ。テキストに対してリアクションすること。つまり一方的に情報を受け取るのではなく、作者と会話するように、相互的に読書をする。
これが学習内容に対する理解を助ける。
最初はちっとも慣れないと思う。
どこにしるしをつければいいのかわからないし、書き込むことへの罪悪感も手伝って全然うまく書けないと思う。でも丸一冊この方法で読書をやりきると、次の本に取り掛かったときに飛躍的に書き込むがうまくなっていることに気づくと思う。
これは行為に対する慣れというよりは、「あ、書き込んでもいいんだ!」と脳が理解するアハ体験に寄るところが大きい。
授業を受けるように本を読む。参加する。
慣れていないときは、「ここ頭に入れたいな」という部分を、余白に丸写しするのがおすすめだ。慣れてきたら、ただ丸写しするのではなく要約してみたり、自分の言葉で言い換えたりするといい。感覚は人に教えてあげるときの感じだ。
友人が次にこの本を読むと思って、そのサポートのために「ここは要するにこういうことを言ってるんだと思うよ」とこっそり書き込んであげるような感じ。
これを繰り返して読了したころには、本はあちこち書き込みだらけの「自分だけの本」になっているはずだ。これは、本の興味深いところを自分なりに強化した本であり、あるいはわからないところを調べて加筆した、よりわかりやすい自分専用の参考書でもある。あるいは、作者と自分による対話のような本になっているかもしれない。
真意は二周目にある。復習を欠かさない。
ここからが重要なのだけれど、一周目を読み終わって「これは本当に良い本だった。」と感じたならば是非二周目に突入してほしいと思う。つまり、もう一度初めから読み直すのだ。
二周目の景色は、一周目とはまるで違う。
それは自分が歩いた軌跡を振り返る旅だ。
考えてもみてほしい。
あらかじめ自分に興味がある部分が協調されていて、自分がわからなかったところには注釈が最初から入っている。そんな学術書が世界のどこにあるだろう?
僕たちはそんなスペシャルな本を手にすることになる。
その景色は、例えるならポケモンの一周目をクリアして、また最初の町からスタートしたときのようだ。現れるポケモンは出会ったものばかり。でも二周目だという安心感から、一周目には気づかなかったところに気づく。一周目では出会いそびれたポケモンがいたり、入りそびれていた建物があったり、一周目に魅力を感じなかったものが二周目では面白く感じたりする。
一周目を赤ペンで辿ったのなら二周目では青ペンを使ったらいいかもしれない。
他にもペンの色分けには様々な方法があるが、それは自分で試してみて最良の方法を見つけてほしい。
僕はラインマーカーを多用した時期もあったが、結局あまりうまくいかなかった。ラインマーカーは「ひく」ことしか出来ないのでどうしてもずるずるひくことだけが目的になってしまい、読書に対して積極的になるという当初の目的から逸れてしまう。それからはずっと3色ボールペンで読書を続けている。
二周目が終わればとりあえず読書は完了だ。
あとはまた読みたくなった時や、何かの拍子に参考にしたくなったときに部分的に開いたり、三周目に突入してもいい。読んで、自分の言葉を書き加えて、それを次の周に読み返して、また思ったことを書いて。それを繰り返しているうちにその本はその作者の手を離れて、僕たちの手に渡ることになるだろう。僕たちの野次が入りすぎて、もはや自分の言葉になってしまった本だ。
あるいはそうなったときに僕たちはようやく「本を読んだ」ことになるかもしれないけれど、それは大変な苦労になるだろう。結局のところそこまでして読み込む必要のある本はそんなにはないはずなので、三周目、四周目と読み続ける本は自然と淘汰されて限定されていくだろう。本棚は本来そういう本だけを収納しておけばいい、とすら思うのだけれど。
今回は本に書き込みを加えながら読書をすることで、テキストに参加し、作者との対話に挑戦し、本の内容を理解して自分の血肉にする方法を模索した。
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つづく