必ずしもやる必要がない範囲を切り捨てて人生を最適化する
朝起きたときにヒイラギ氏のツイートを見かけた。
手の届く範囲は何ごとも全部じぶんでやってみるのって人生が多分豊かになるよ 成果物への最短ルートではないけど…
— ひいらぎはじめ (@Hi_ragiHajime) 2018年3月2日
と、思っていたけど どうだろう
僕はこれを読んだ時の、それに対するアイデア言語を一つ一つ掴まえて溶きほぐして文章にしてみた。それが以下のものだ。
「手の届く範囲のことを一度全部じぶんでやってみると人生が豊かになるが、それを経験した上で、必ずしも自分がやる必要がない範囲を切り捨てて行くともっと前に進める」
こういったことについて考えるときに引き合いに出したいのは「一人暮らし」だ。
実家暮らしだとどうしても"手の届く範囲"であり"本来自分がやるべきこと"−料理や家賃支払いや洗濯掃除など−を親にやってもらうことも多いと思う。
これが一人暮らしを始めると、自由の対価として自分で料理から何から考えなければならない。「お母さんがいかに身の回りの何もかもをやってくれたか」を実感する瞬間だろう。
そして一人暮らしを始めて手の届く範囲をすべて自分でやってみる。
自分でやって見て初めて、人一人が生活していくのに必要なお金がわかり、自分が自分の足で立っているという実感が湧いてくる。「できないことが自分でできるようになる」これは人生の豊かさだと僕は思う。
手の届く範囲のことはなんでも自分でやってみるべきだ。手の届く範囲ですら人に任せてしまっては、下手をすると生きているのではなく生かされている状況になってしまう恐れがある。
さて、逆にあえて屁理屈の極論を展開してみる。
手の届く範囲のことを何でも自分でするなんてことは出来ない。
僕たちは人の建てた家に住み、人の作った服を着て、人の作った道具で仕事をする。
そのそれぞれは、僕たちの「手の届く範囲」のギリギリ圏内にいるのかもしれない。
ただそれは目一杯手を伸ばしてその作業に当たることになるので、他のことがおざなりになるだろう。
つまり僕たちは生きる上でのあらゆることを他者に依存しており、一人暮らしをして「全部自分で出来た」と豪語してみても、社会に守られ、インフラに助けられ、保険で歯医者に行ける自分であることに変わりはない。
「手の届く範囲」の捉え方をあえて意地悪に取った考えを展開してみた。
ここで言いたいのは要は「手の届く範囲すらやらないことは、必ずしも罪ではない」ということを言いたかったからだ。そしてもちろん同時に「手の届く範囲のことを全て一度引き受けてみる」ことの重要性も述べた。
つまり一度全て引き受けて、理解すること。
楽曲ダブルラリアットでいう「半径85cmがこの手の届く距離」というアレだ。
そしてその上で、手の届く範囲の中の「これは自分がやる必要はないな」と言った部分を切り捨ててみる。
これは失敗例だけれど、僕は一度極端に「食事」という要素を切り捨てたことがあって、栄養剤だけで食事を済ませて時間短縮をはかったことがあった。これはすごく効果があったのだけれど、体重と体力が驚くほど下がってしまったので慌ててやめた。
僕の肉体に取って「食事」はやめてはいけない要素だということはよくわかった。
やらなくてもいいことを切り捨てることで、
切り捨てた時間で「やるべきこと」に力を注ぐ事ができる。
「必ずしも自分がやるべきではないこと」、が何なのかというのはその人による。
そしてそれが何なのかを知るためには、自分のことを理解していなければならない。
自分が優先したいこと、自分に取って大切なこと、自分がやりたいこと....それがわかっていれば、やらなくていいことが見えてくる。
やるべき事のために自分の生活を調整する事。これを僕は「最適化」と呼んでいる。
例えばオリンピックの重量挙げを想像してみてほしい。
屈強な選手がバーベルを前に深呼吸をして、バーベルに手をかけて一気に持ち上げる。
そしてきっちり持ち上げてから、その場にボトンと落とす。ゆっくりと丁寧に床に置く選手はいない。当たり前だ、そういう競技ではないのだから。
そんな重量挙げのトレーニング風景をTVで観た事があるが、重量挙げの選手にとって、ものを持ち上げる筋力は必要だが、ものをゆっくりと下ろす筋肉は無駄でしかない。だから普段のトレーニングでも重たいものを下ろす時の動作はいつも側のコーチが代わりにやってくれるのだ。
極端な例ではあるが、これが最適化だと考える。
ちょっと発言がバラバラしてしまったので
今日言いたかったこと
- 一度全部自分でやってみないと「生かされる」ようになる
- ただ全てを自分でやると人生の目的にコミット出来ない
- やるべきことが見えていれば切り捨てができる
- 切り捨てて、最適化をおすすめしたい
以上です。
つづく