鈴木ユートピア

31歳、写真、キャンプ、バイク、旅

文章を書くこと

 

窓の外では春の冷たい雨が降っている。

僕はキャンプとか山登りとか、外遊びが好きだから、雨が降っていると家に閉じ込められているような感覚に陥る。そういうときは大人しく本を読むか、こうして文章を書いている。

 

本をしばらく読んでいると文章を書きたくなってくる。

ピアノの経験者がピアニストが主人公の映画を見終わったときにちょっと久しぶりに弾いてみようか...という気持ちになるのに似ている。えー、久しぶりだから弾けるかな。自信ないや。と照れくさそうな顔をしきりにひねって、両手をストレッチさせるのだ。

 

そんなふうな気持ちで文章を書く。アマチュアだから、その文章は直前に読んでいた文章に大いに影響を受ける。村上春樹を読んだ後なら村上春樹みたいな文章になるし、宮下奈都の文章を読んだ後なら宮下奈都みたいな文章になる。人にもしそれを指摘されたら...と思うとおっかない気持ちになるけれど、幸い指摘されたことは今のところない。

 

文章を普段から書いていると、文章を書く目線で本を読んでいることがある。完全な読者ではいられない。でも本物のアマチュアだから、「なるほどそういう表現をすればいいのか」とか、「こういう文章の持っていき方があるのか。勉強になるな」と思うレベルには程遠くて、ただただ「見事な文章なあ。素敵だなあ」と思ってしまうのである。

 

子供の頃から作家になりたかった。

正確には、なるだろうと確信していた。昔から、思い込みが激しくて、他の選択肢が目に入らないのだ。思うに、プロとは、普通の人が到達できない120点を叩き出す人のことではない。体調が悪い日も、絶望的に乗り気でない時も継続して80点を出せる人のことをいうのだと思う。だから、僕がもしどういう日であってもコンスタントに日々文章を書き続けることができたら、それが作家としてのスタートラインに立ったということであり、準備が「整った」と言えるのだろうと思う。だから、その日が来るまでは僕はまだ作家になる準備中であって、作家になる素養がなくなったという理由にはならない。

 

作家は何歳になったらもう諦めなさい、というのがないのが良いなと思う。50歳でデビューしてもいいのだ。良い作品が生み出せるなら。見る人が一人しかいなかったとしても、作品を生み出しているのならあなたは作家です、みたいな理屈を申し上げているのではなくて、いわゆる職業作家として、小説などを書いて生計を立てる人のことを言っている。僕は社会人10年目が近づいてきた今になっても作家の夢を諦めていない。「まだ文章が溢れ出していないということは、今はその時ではないのだろう」程度の認識で、のんびりしている。だいたい、学校を卒業してそのまま作家になる必要なんてないのだ。社会に揉まれて、色々な人間模様を経験してから作家になっても遅くはあるまい。遅くないどころか、いい感じに脂が乗った感じではないか。

 

兎にも角にも僕は今こんなふうにして、誰に頼まれるでもなく、お金になるでもなく、褒められるでもなく、つまりは利のない消費行為として漫然と文章を書くことを楽しんでいる。誰もいないコンサートホールで、頭の中は満員のコンサートホールを想像しながら自分だけのピアノを弾く感覚だ。