バーベキューにいかれない
突然だけど、バーべーキューが苦手である。
苦手というか、足がすくんでいかれない。昔から大人数で何かやるのがだめなんだ。
僕は物心ついたころから「みんな」が怖い。
幼稚園のとき、「あさのおうた」という時間があった。
僕は皆が決まった時間に決まった立ち位置で決まった歌をなぜ歌わなければならないのかちっとも理解できなかった。
もしみんなと同じように歌を歌ったら僕は「みんな」にされてしまう。
「みんな」僕は僕でなくなってしまう。
「我々は宇宙人だ」は宇宙人という種であって、個ではない。
僕は「みんなと違う」ことでしか自分の存在を認識することができない。
3歳のころから、ずーーーーっと、そうだった。これは僕の人生における大きなテーマの1つだ。
結局僕は「あさのおうた」でみんなと一緒に歌うことを拒否し、
代わりに僕はみんなの前でフラダンスを踊った。
奇をてらったおふざけのように思われるかもしれないけれど、僕はこれを幼稚園にいる間ずっと続けたそうだ。先生も周りの子も段々「あいつは踊るのが役目」みたいな感じになって承認されていたような気がする。
20年後、中小企業に就職した僕
会社の椅子が壊れかけていて、「新しいのに変えてくれ」といってもなかなか申請が通らず、結局僕は自分で椅子を購入した。
それがこれだ。もうなんていうのかな。椅子を買ってもらえなかったアンチテーゼとして。「椅子買わないと俺は自分の金で椅子を買うし、俺が金を払う以上椅子に関して文句は言うまいな!」みたいな。
読者諸君は「こんなこともしてたなコイツ...」って感じだろうけど、うん、バランスボールね。
あれ、言ったっけ。これ。
バランスボールでしばらく仕事を続けてたら会社の社長に話が言ったらしくて(誰かチクったんや!)社長が僕の席までバランスボールを見に来るという事案まで発展。
「アンディさんそれ座りやすいですか?」と社長が訊ねて
「はい。めっちゃはかどります」と即答すると
納得したように去っていったよ...。
で話をもとに戻すと、僕は「みんな」と違うんだって自分に言い聞かせることで自分の存在を認識する。それゆえにちょっとずれた行動をしたり、ひょうきんな言動をして浮いてみたりする。それは割と、意識的にやっている部分が大きい。
バーベキューにいかれない。
バーベキューに行ったら僕は「みんな」になってしまう。
例えば20人のバーベキューで、僕がふといなくなっても誰もしばらく気づかないだろう。「みんな」というのは常に「替えがきく」ものなのだ。自己再生する頭のない怪物のようなものだ。
それはバーベキューだけに限らず、大人数のカラオケやボーリング、パック旅行でも同じことが当てはまる。それらは僕にとって非常につらい時間になりうる。
逆に僕は少人数の遊びを心から歓迎する。
それは友人との登山だったり、ボルダリングだったり、プラネタリウムだったり、2人とか3人とかの飲みだったりする。そこでは僕は「みんな」になりえない。
二人での作業であればそれは対面的な関係である。
「僕」がいて「あなた」がいる。決して「みんな」ではない。
僕は常に「あなた」として扱ってもらえる。その「あなた」が保っていられる人数、それが僕の限界だ。経験でいうと、「あなた」が「みんな」になるのは5人からだ。
4人までなら何とかなる。それぞれがかけがえのない存在で、例えば一人いないとすぐに気が付く。そういう力関係が及ぶのが4人だと思っている。今のところ。
そういうわけで結局何が言いたいのかっていうとバーべーキューに行かれないのだ。
なんでバーベキューにいかれないことをこんなところに書いたのかというと、今ちょうど誘っていただいているところだからだ。
それで、それをお断りしたのだけれど、「なぜいかれないのか」について、僕が正直に今書いたようなことを延々と説明するのは現実的ではないので、こうして当てつけのような形でここに書いておくのである。
「一度くらい言ってみれば?」
たしかに、それもいいかもね。
おしまい