蟹の娘
蟹と呼ばれた車掌は「ドアが閉まります。駆け込み乗車は御辞めください。」というアナウンスの後にベルを鳴らした。若い女性が駆け込んでくる。ドアはまだ閉まらない—。
...おれはアナウンスしたからな。と蟹は胸の内でつぶやく。
女性が車両に滑り込むまで三歩半で閉扉のスウィッチを押し込む。それはいつも通り寸分違わぬ手際の良さだった。女性の片方の足を扉が挟む。女性は恥と苛立ちで顔を赤らめる。蟹はまだ扉をあけない。「...駆け込み乗車は...御辞めください。」そうアナウンスを繰り返すとようやく扉を開けた。
元々ドアはそんなに強い力で閉まるわけではなく、蟹はただ見せしめとして、あるいは明確な威嚇攻撃として駆け込み乗車を挟んでいた。これが蟹という渾名の由来だった。
ある日、幼い子供がおぼつかない足取りで電車に駆け込んでくる。
後ろでベビーカーを持った女性が悲鳴を上げる。「それには乗らないのよ!戻りなさい!」その声は蟹には届かない。アナウンスが終わり、ベルが鳴る。蟹は幼い子供を見つめながら躊躇無くドアを閉じる—――その子供が自分の娘とは気付かずに。
「な、そんなことになったらどうするお前?」と駅長が諭す。
「僕に子供はいません。」蟹は困ったように首をかしげた。
END