鈴木ユートピア

31歳、写真、キャンプ、バイク、旅

一人称を変えました

 

また本当にしょうもなことをしたんですけど、

一人称を変えました。日常生活で。

 

 

 

「僕」から「私」に変わりました。

 

 

 

 

もともと、友人がそういうことをしていたのがきっかけ。

彼は一人称じゃなくて、生活のあらゆる動作を普段とは逆の、利き手じゃないほうの左手で行うということをしばらく続けて結果として脳が刺激されて視力が回復したという種類の変態だった。

 

今回それに感化されて、あるいは煽られるようにして一人称が変わった。

一人称を変えてから2か月が経ったけれど何が変わっただろう?少なくとも視力は回復してない気がする。

 

 

 

 

家族や友人に対しては今まで通り「俺」で通しているので変わらないのだけれど主に会社で(会社はこういうしょうもない対人実験におあつらえだということに最近気づいてしまった。)はじめて、今ではすっかり定着しましたとさ。

 

 

自己破壊

まっさらものを「よーしやるか」って始めるのが好きなんですよね。

ばらばらのジグゾーパズルとか、新発売で基本操作もさっぱりわからないゲームとか。あとは、買ったばかりのケータイとかね。

 

特に、これは同意してくれる人にまだ出会えたことがないのだけれど、スマホを初期化するのが好き。普段使いのスマホを突然初期化させちゃったりする。「そろそろ重くなってきたし初期化するか」くらいのノリで。ほかの人はあんまりそういう人はいないらしい。ケータイを初期化すると、当然全部アプリとか、写真とか消えてしまって、買ってきたばかりのスマホみたいになる。ほら、なんかお得じゃないですか!っていっても伝わらないんだよな.....。

 

あるいは本当に新しいスマホにして(新しい電子機器が大好物なのでついつい新しくしてしまう。)どこになにがあるのかよくわからず、設定とかインストールとか色々迷ったり間違えたりしながら自分用にセッティングしていくのがすごく楽しい。

ゲームもたいていそういうところがあるけれど、ゲームはこちらの選択が向こうの意図するところであり、正解が決まっているのでスマホの設定に比べると面白みにかける。とはいえゲームも最近はオープンワールド方式みたいな自由度の高いゲームが増えているからその限りではないのかもしれないけれど。

 

そういうのって自己破壊なのかなって思う。

千葉雅也の「勉強の哲学」でも触れられているけれど、勉強とは喪失することなのだと。今までの流れ=ノリを一旦捨てて、新しいノリを手に入れれるための自己破壊なのだというような言及があってすごく僕の感覚に合っているなと思ってうれしくなったのを覚えている。

 

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

 

で、僕にとっての一人称の変更は僕なりの自己破壊であって、ファームウェアのアップデートだったんだよね。だから別に新しい一人称は何でもよくて、拙者でもワイでも朕でもよかったんだけど、周りが一番困らないのは「私」かなと思って。

今までずっと「僕」を使っていて、ほとんどのビジネスパーソンが「僕」を使うんじゃないかと思うんだけど、「僕」って語源をたどれば「下僕」の僕で、自分を蔑む表現じゃないですか。そう考えるとよりフォーマルでフラットで、中世的な感じがする「私」のほうがクールなんじゃないかなと思って。

 

 

 

 

まあ僕が「自己破壊だ!」とかいって一人称を変えたところで誰も何も言わなかったし、変わったことにも気づいていないんじゃないかなと思ったのだけれど、実は僕が一人称を変えたのには個人的に自分をアップグレードするための卑小な試みが元になっていて、平気で会社でそれを試してみているのだー!とここで小声で暴露するのである。

 

 

自己破壊っていう僕の性癖みたいなのが、文化人類学的に言うと「ロマン主義型消費主義」とでも言い換えられそうでぞっとするのだけれど、このあたりはまた別の機会で語ろうと思う。

 

 

私はそろそろ寝るとします。

読んでくれてありがとう。

 

 

 

 

おしまい