手帳とは、上司であり、先生であり、父親である
特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと」
手帳という上司
「やばい今日〇〇やってない....でも帰って報告しなきゃ....。」
こんなことを考えながら暗い気持ちになる帰り道を誰しも経験したことがあるのではないか。これは別に上司でなくても、先生でもいいし、父親でも良い。
絶対的に権力があって、おっかなくって、報告しないといけない相手。
そういったものを想像してみて欲しい。
僕にとって手帳はパートナーであると同時に「上司」である。
あるいは「監視員」であり、「門番」であり、「先生」であり「父親」である。
今日やらなければならないことー。
誰にも管理されずにやらなければならないことを淡々と日々こなすことが出来るほど人間って出来てないと思う。
「まずいなぁやってないなぁ....やらないと怒られる...。」
そんな緊張感がだらしない僕には必要だった。
僕は会社員なので、会社の仕事をやるのは当然だとして、「やらなくても特に誰にも怒られないこと」―部屋の掃除や、健康管理や、勉強や読書のことーについて
僕は誰かに尻を叩いてほしいのである。
さて、僕の手帳にはまず、元旦に考えた目標が書いてある。
いつでもそれを見返せるようになっていて、しかも元旦に書いた文章なもんだから、「今年はこんな年にするぞ!」という情熱がすごい。平時の自分からすると「おいおい、俺たちの身にもなってくれよ」と言いたくなるような熱意で、自分を律し、ひたむきに努力する旨がつらつらと書いてあるので参ってしまうのである。
つまりは、元旦に考えた「理想の自分」に失望されたくない、という思いがある。
手帳=上司=自分
種明かしというほどのものではないが、僕の上司は"理想の自分"である。
「こうなりたい完成された、マジすげえ自分」が手帳の中に確かに生きていて、僕が手帳を開くたびに「よう、調子どう?」と話しかけてくるのだ。
「今日は...洋書を5ページ進めるつもりだったんだけど...まだやってなくて...。」
なんてことは簡単には言えない。それは理想の自分を失望させることになり、それは自分自身に失望することになる。人間、自分に失望するほど辛いことはあるまいて。
前述したとおり、僕の手帳の冒頭には元旦に書いた抱負が書かれているわけだけど、当然日々生きているとそれだけだと上手くいかないのだ。
疲れている日はあるし、忙しいときだってある。いつでも元旦に思い描いたような生活ができるわけがないし、できるわけがない、という当たり前のことが元旦には想像できない。
だから分割するのだ。1年を12分割して、毎月の目標を立てる。
あるいは、僕の場合は毎日「まあ明日のスケジュールならこのくらいできるやろ」と踏んでノルマを与える。それは抽象的であったり具体的であったりする。
「ランニング10km」とか「感謝を言葉で伝える」とか「瞬間瞬間に集中する」とかね。
もちろん、ゆっくり過ごしたり、遊んだりもする。それも、能動的に「よーしゆっくりするぞー!」「だらけるぞー!」と納得して生きたい。
間違っても「うとうとしてたら夕方になってた」みたいなことはやりたくないのだ。
今年も手帳を携えて理想に向けて歩いていきたい。
今年もよろしくお願いします。
おしまい