鈴木ユートピア

31歳、写真、キャンプ、バイク、旅

複雑系インフレーション

 

こないだ六本木のおしゃれなカフェ(倫理的な価値観から肉とかを食べない人たち...なっていうんだっけ?いつもわからなくなる。アガペー?ビネガー?)で"複雑系"の話をしたと思う。黒人が大使館の悪口を言いながらダルメシアンを眺めて、秋の始まりの風を感じたあの時だ。

 

"複雑系"っていうのは誤解を恐れず言えばバタフライエフェクトみたいなものだと僕は思っていて、世の中は"風がふけば桶屋が儲かる"みたいに何が何に起因しているかわからないから、一概に因果律では説明できないよね、みたいな論理だ。っていうか、少なくとも僕はそういう風にこの言葉を使っているんだけど。

 

こないだのカフェの時と前後して、僕の中の「複雑系」の価値観は行き過ぎなくらい発達してしまって、つまりは全てがナンセンス化してしまった。

例えば会社の上司が「優秀な人材が入らないのは休みが少ないからだ」と言えば、「他にも時期的な問題や時勢や、求人のフレコミの仕方など、無数の問題があるのでは?」と思ってしまうし、運転中に無理な割り込みをされた時も「この人は死ぬほどトイレに行きたいのかも知れないし、視力や注意力に障害があるのかも知れない。あるいは日本の交通事情に慣れていない外国人かも知れない」などと考え始めてしまう。それは、一概になんでも因果律で済ませてしまうような安直さから僕を遠ざけてしまう一方で、何も結論づけられないふわふわした脳みそを生み出してしまったような気がして、なんというか不如意だ。こんなつもりではなかった...のである。

 

 

 

 

明らかに相手が間違っている理屈の時でも、相手に対して「それでも相手は一生懸命喋っているのだから、何かしら正当性はあるのかもしれない」と思って一応は「ふむふむ

と聞いてみるのだけれど、結局最後まで聞いてみるのだけれど何を言っているのか訳が分からず「僕の理解力が足りなかった...のかも知れない」などと言いながら首を傾げて帰っていく日も増えた。そういうつもりではなかったのだけれど。

 

そういう風にして3年くらい経った気がする。多分。

今となっては断言する人が羨ましい。「あなたは絶対に間違ってる」とか「これだけは間違い無いから言わせてもらうけど」と堂々と言える人が今では眩しい。

今僕は口が裂けてもそんなことは言えない。

 

それは思慮深いからでもなければ、用心深いわけでもなく、ただ何もかも決めずに放置する態度を延長し続けることで、「AではなくBを選んだお前」にならない、楽な道を歩いているだけのような気もして、じゃあ今更どうすりゃいいんだよ。みたいな。

 

でもここまで書いておいてあれだけど、やっぱり答えがある競技よりも答えがない競技の方が好きだ。大好きだ。数学よりも哲学が好きだ。