鈴木ユートピア

31歳、写真、キャンプ、バイク、旅

普通名詞としてのkindle

 

かつては欲しいモノをできるだけ沢山手に入れて、

色々なものに囲まれるのが豊かさで、それを目指すゲームなのだと

世界に対する大きな誤解があったけれど、今となっては

モノに囲まれるというのも結構疲れるなぁと思うようになった。

 

子供の頃、ペットを飼いたいと言うと親に「ちゃんと面倒見れるの?」と脅されたものだが、それは何も生命に限った話ではなく無生物だとしても面倒は見なくてはならない。PCもペンも服も車も乗らなければ壊れる。そう考えると一人の人間が(きちんと面倒を見ながら」所有できるモノの数には限度があり、そしてその限度は想定よりかなり少ない。靴だって、きちんと洗って、干すことを定期的に繰り返すのであれば所有できる数はせいぜい5足くらいではないか。10足だとやはり面倒を見切れない。

 

昔夢中になってみていたブログで「AGITO」と言うサイトがあって、自分の持ち物をほぼ全て写真撮って公開しているという特異な場所だったのだけれど、そう言う風に持っているものを隅々まで認識できたらどんなに素敵だろうと思う。

 

simplelife.agi-to.jp

 

 

持っているものを全てを書き出して管理する/認識すると言うのは本当に憧れがあって、何度かチャレンジしようとしたのだけれどついに達成できなかった。そもそも持ち物が500以上あるとどこかで心が折れると言うものだ。それに僕はミニマリストになりたいわけではない。

 

新しいものをどんどん買ってはしゃぐ感じではなくなってきたけれど、かといって同じものを延々と使い続けてボロボロになってもメンテナンスして使うことに特別な美徳を持っているわけでもない。

 

そう言う意味では僕が愛用しているkindle端末なんかは、本当に気に入っていて重宝しているけれど、ボロくなったら買い替えるし、視認性が高いモデルが出れば買い替えるので固有名詞として一つのkindleを愛用しているわけではないが、普通名詞としてkindleを愛用している。そのくらいのラフさというか、温度感で色々なものと接していきたい。それはボールペンにしても靴にしても家電にしても同じことだ。