カメラマンになるきっかけになったカメラマン
似非でも何でもいいけど、とにかくカメラマンをしている。
どこからがカメラマンで、どこから下になるとカメラマンじゃなくなるのか検討もつかない。弁護士や消防士、教師でも、それになるには免許が必要になるが、カメラマンにはそれがない。カメラを持つことも写真を撮ることも、誰にだって出来る。
デザイナーでもカメラマンでも歌手でも、ライセンスが必要ではない仕事ってヤバいと思う。瞬間的に食いっぱぐれる危険性がある。それゆえに、勝ってしまえばこちらの物だし、とにかく感性と技術だけで勝負できる点があるので、そこに面白さがある。
逆に消防士が感性のままにユニークな手法で火事を消していたらびっくりするけどね。
それを仕事にしている人たちと一緒に、僕はスタジオカメラマンとして末席を汚しているのである。
今回紹介するのは市橋織江というカメラマンだ。
僕が一番好きなカメラマンで、「どうしたらこんな写真が撮れるんだろう」
ってカメラを持っているときはずーーーーっと考えている。
中でも僕の中で昔から変わらずに輝き続けている写真がある。
なんて綺麗な水色なんだろう
と感動した。
街灯・旗・ベンチ。
向こう側は海だろうか?大人たちは海を眺めながら「ちょっとここで休もうか」
って言い合ったんだろうか?
「ちょっと狭いから無理だよ。」
「大丈夫大丈夫。つめればいいんだから。」
っていう会話まで聞こえてきそうで、優しい写真だな。とつくづく思う。
水色と人がある写真は必ず物語を感じさせる「何か」があって、
その「物語」はきっと優しい。
こんな写真が一度でも撮れたら、カメラを辞めても良いってぼんやり思う。
僕は人を撮るのが仕事だし、人を撮るのが好きだ。
人は捉えようの無い川の流れのようなものだから、絶えず変化を繰り返している。
昨日と今日ではその人はどこか違っているはずなのだ。
僕という人があなたという人を撮るということに面白さを感じる。
僕の撮るあなたの顔は、僕に向けた顔であって、
例えばお母さんと一緒にいるときとは違う顔なのかもしれない。
僕には「僕に対する顔をしているあなた」しか撮ることができないのである。
親友といるときの顔は?気になる人といるときの顔は?
って考えながら、せめて今だけは、僕に向けた顔を精一杯撮らせてもらう。
そういう所にカメラマンの面白さを感じる。
シアトルにて一枚。