鈴木ユートピア

31歳、写真、キャンプ、バイク、旅

youtubeで寂しさを埋める

 

毎日youtubeを視聴している。

見ているのはクイズノックと花江夏樹のゲーム実況チャンネル。

それ以外の動画はほとんど見ない。

 

なんとなくずっと見ていて、ちゃんとした目的があって見ているのではない。

テレビでバラエティ番組を見ているのと状態は変わらないと思う。

 

どうしてyoutubeの動画を見ているのか考えてみると、たぶん「賑やかし」なんだと思う。クイズノックも花江夏樹も年が近くて、ワイワイ楽しく遊んでいる動画を見ているとこちらも愉快な気持ちになる。その愉快な気持ちを摂取したくて動画を見ているんだと思う。

 

それ以上若い人の動画を見ると「バカやってるな」と冷めた目線になってしまうし、年上の動画だと「いい歳して何してんの」ってやっぱり冷めた目線になってしまう。自分と同年代がわちゃわちゃやってるのが自分にとって大切なんだと思う。

 

 

 

22時30分頃、そろそろ寝るかなって布団に入ると寝る前に動画を視聴する。

新しい動画がアップされていなくても、古い動画を遡って視聴する。要は中身はあまり大切ではない。できるだけ馬鹿騒ぎして、自分が理解できるノリでわちゃわちゃしていることが肝心だ。

 

学生の頃はそういう動画は見ていなかった。それは日常生活で仲間内で動画内のようなやり取りをしていたからだ。足りていたのだ。それが社会人になって、職場で年上や年下に囲まれて、同年代と馬鹿騒ぎするでもなく(なんと言っても仕事をしに行っているので)過ごしている。そうすると、特定の栄養素が枯渇しているみたいな状態になって、たとえばビタミンCが不足していると無性にオレンジジュースを飲みたくなるみたいに渇望するようになる。同年代とのコミュニケーションが栄養素として慢性的に枯渇しているのだ、と分析してみる。それで、同年代のyoutuberが遊んでいる様を視聴することで、自分もその輪に入っているような擬似体験をして、精神を満足させている。さながら手頃に栄養を補充できるビタミン剤みたいなものなのだと思う。

 

ところで、そういう状況の(同年代とのコミュニケーションが枯渇している)社会人は少なくないんじゃないかと思う。そんなことないのかな。たとえば大企業に新卒で入った人とかだと同期が100人いたりして、たまに集まって飲み会をしたり愚痴を言い合ったりしてるんだと思う。それとも、とはいえ会社員になったら同期とはいえども利害関係があったり、上司の関係性があったりして、必ずしもそんなことないんだろうか。あてもないことを想像したりする。

 

人によっては同年代と馴れ合わなくても自分で自分を慰めて生きていると思う。子供がいる世代なんかは馬鹿騒ぎしている暇なんかなくて、パートナーの愚痴を聞いたり子供の世話をしたり、様々な諸問題(親の介護や税金の支払いや家族のケアなど)に精一杯で、そんなことをしている暇はないのだろう。

高校生の時は「ういーカラオケ行こうぜ」って言える友達が20人くらいいたとしても、社会人になったら段々疎遠になって「ちょっと飲みに行こうぜー」と言える相手が2、3人になって、中年になったら1人いたらハッピー、くらいが妥当なんじゃないか。「いやいやそんなことない、みんな地元にいて、仲間たちは奥さん旦那さんも同級生ばっかりだし、街を歩けば友達に必ず会うもんよ」と言う人もいるだろうけど、そう言うのはマイルドヤンキー的な土着の生活圏に根をしっかりと張っている人だと思うし、本当に幸せなことだと思う。正直羨ましい。(同時に煩わしさみたいなものもあるんだろうなと想像するけれど)

 

職場に行けば性格の合う上司がいて、信頼できる部下がいて、同い年の同僚がいたりして、家に帰ればパートナーがいて、帰ろうと思えば簡単に帰れる実家があって、両親も健在だから、豊かすぎる環境だと思う。その豊かさすぎる環境の中で慰められない孤独を抱えて日々youtubeを見ている自分を発見した。だからどうかという話でもないのだけれど。

 

その寂しさや根源的な孤独を噛み締めながら、珈琲や酒や煙草などの依存物質にたまに甘えながら、社会的な責務や家庭での立場を守るために忙しく立ち回ることで人は健全に(あるいはやや不健全に)年をとっていくんじゃないかと思った。

 

 

 

仕事、辛い、自分を責める、対処。

 

仕事でへこんで辛くなったので

google検索で「仕事 辛い 自分を責める 対処」

みたいに調べたら

 

「それって背負い過ぎかも?仕事のストレスの解消方法ベスト10!

30秒でできる適性職診断!今すぐ無料!」

 

 

みたいなサイトがわんさか出てきて、吐くかと思った。

30過ぎて自分の気持ちの慰め方も知らないって言うことに

自分でも驚いたりする。煙草もやめたし....。正直散歩くらいしか思いつかない。

 

ストレスの解消法として

長湯をするとか、ストレッチをするとか、日光を浴びるとか、

そりゃまぁそう言うのが良いのはわかるんだけど、僕が知りたいのはもっと圧倒的な対処法だ。ばちばちーん!とキマっちゃうようなやつだ。悩みが吹っ飛ぶようなね。

でもそんな方法は存在しないのだろう。

 

 

 

 

自分の気持ちの慰め方を知ってる人は素敵だと思う。

 

 

 

 

「ああーちょっと辛いかな」と思ったら、すぐ何か行動に移して、さっぱりしちゃうのだ。そしていつもゴキゲンだから、良い出来事が寄ってくるんだ。それはスパイラル。きっと。ずるい。反対に落ち込んでいつまでもクヨクヨしていると、やはり悪い機運がやってくる感じがする。

それはスピリチュアル的なニュアンスだけでなく、単純にしかめっ面した不機嫌な人に良いことしてあげようって思わないデショって言う意味でね。

 

 

そうだ、溜め込まないことが大事だ。

例えば「あいつムカつく」と思ったら、思った瞬間に対処する。

早期発見、早期対処!それを対処せずに「はームカつくな。こないだだってああだったし、そういえば先週もこうだったし....」と勝手にネガティブを膨らませたり、あるいはムカついている自分を責めながら気付かないふりをして、「ムカつくなんて思っちゃいけない」と我慢して過ごして、結果として辛い気持ちを抱き続けたりしてさ。

そう言うのがダメなんだなー。

 

 

たまに気持ちをすぐ吐き出すタイプの人がいる。おっさんに多い?そんなことないか。

 

「あーもー何やってんだよくそー!」と怒鳴り始めたりする。

誰かが違うことを言うと「そんなわけないだろー!」と吐き出す。

それが正しいかはさておき、良いな、と羨ましく思う。

 

 

 

 

 

 

そう言う人は往々にして明朗だ。わかりやすい。

元気な時は「おっすー!」って言ってるし、イライラしてる時は「イライラするなあ!」って言ってる。イライラは発散して、溜め込まず、そして拗らせないから引きずらない。さらっとしている。こういうの昭和の言葉でなんて言うんだっけなあ。寅さんみたいな。あっけらかんじゃなくて、粋でもなくて....。

 

 

 

10年くらい振り返ってみれば、つまりそのくらい長いスパンで考えてみれば

やはりなんでもさっさと伝えたほうがいい。発散したほうがいい。

 

愛の告白でも、仕事のミスの報告でも、ちょっと嫌だなと思っていることでも、すぐ伝えたほうがいい。いやマジ。もちろん時と場合があるから、「1時間後に伝えるかな」とかの調整は誤差の範囲だが、言えないまま1週間が経ってしまった....みたいなのは9割くらいダメだな。稀に10回に1回くらい運よく誤魔化せて何とかなることもあって、割とその成功体験が脳に都合よくこびりついていたりするわけだけど、しかし全体で見れば残りの9割は悪い結果を辿っている気がする。当社比です。

 

今は振り返って論じているから痛くも痒くもないが、

しかし躊躇しているまさにその時はやはり辛い。

しんどくてしんどくて堪らない人に「大したことないんだから肩の力抜きなよ」と言っても救いがないのと同じなのかもな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私服の制服化

 

 

かつて「私服の制服化」に憧れたことがあって、その時の名残?というか惰性で同じ服ばかり着ている。

 

春夏は無地の白Tシャツ、秋冬は黒のワイシャツを着る。

だから暑い時は白くて、寒い時は白だ。

 

スティーブ・ジョブズは全く同じニットと同じジーンズを着ていたことはあまりにも有名だけれど、あれは起きて服を着る時に、「どの服を着ようか」と考えるリソースを省いているってことらしい。そういう余計な(服選びって余計なんだろうか?)決定を端折ることで、より重要な決定に取り組むことができる。答えが研ぎ澄まされるって感じなのかしら。

 

 

 

 

カッケー!

 

と思ってしまってな。あ、当時な。迂闊にもな。

 

自分の行動に縛りを科すことによって、自分の能力を底上げする.....もういかにも少年漫画って感じでワクワクする。した。その時は。迂闊にもな。

 

今となっては、ケンブリッジ大学の研究で人は1日に35,000回決断を行なっているということがわかっていて、「じゃあ朝何を着るかなんて1/35,000に過ぎず、それって本当に決断回数の断捨離になっとるんかいなー!!!!と思い、

 

さらに言えばそもそもジョブズは大企業の経営者なわけで、会社の舵取りをしながら毎回重要な決断を下さないといけない立場にいるわけで。そう言う立場でもない自分が「より研ぎ澄まされた決断をするために」着る服を制限するのってチョー恥ずかしいんじゃない??んー?

なんて思っていたらマジで恥ずかしくなってきた。ピエー

 

だって服を固定して決断回数を減らしてるのに、セブンイレブンカップヌードルのカレー味にするかシーフード味にするか、真剣に悩んでるんだぜ?バカみたいだろ。

 

 

 

 

一昨日、肌寒かったので衣替えをした。白シャツの毎日から黒シャツの毎日がやってきたわけだ。意味を失った決断回数が1回少ない毎日が始まる。否応なく。迂闊にも。

 

 

 

 

 

 

今週のお題「急に寒いやん」

普通名詞としてのkindle

 

かつては欲しいモノをできるだけ沢山手に入れて、

色々なものに囲まれるのが豊かさで、それを目指すゲームなのだと

世界に対する大きな誤解があったけれど、今となっては

モノに囲まれるというのも結構疲れるなぁと思うようになった。

 

子供の頃、ペットを飼いたいと言うと親に「ちゃんと面倒見れるの?」と脅されたものだが、それは何も生命に限った話ではなく無生物だとしても面倒は見なくてはならない。PCもペンも服も車も乗らなければ壊れる。そう考えると一人の人間が(きちんと面倒を見ながら」所有できるモノの数には限度があり、そしてその限度は想定よりかなり少ない。靴だって、きちんと洗って、干すことを定期的に繰り返すのであれば所有できる数はせいぜい5足くらいではないか。10足だとやはり面倒を見切れない。

 

昔夢中になってみていたブログで「AGITO」と言うサイトがあって、自分の持ち物をほぼ全て写真撮って公開しているという特異な場所だったのだけれど、そう言う風に持っているものを隅々まで認識できたらどんなに素敵だろうと思う。

 

simplelife.agi-to.jp

 

 

持っているものを全てを書き出して管理する/認識すると言うのは本当に憧れがあって、何度かチャレンジしようとしたのだけれどついに達成できなかった。そもそも持ち物が500以上あるとどこかで心が折れると言うものだ。それに僕はミニマリストになりたいわけではない。

 

新しいものをどんどん買ってはしゃぐ感じではなくなってきたけれど、かといって同じものを延々と使い続けてボロボロになってもメンテナンスして使うことに特別な美徳を持っているわけでもない。

 

そう言う意味では僕が愛用しているkindle端末なんかは、本当に気に入っていて重宝しているけれど、ボロくなったら買い替えるし、視認性が高いモデルが出れば買い替えるので固有名詞として一つのkindleを愛用しているわけではないが、普通名詞としてkindleを愛用している。そのくらいのラフさというか、温度感で色々なものと接していきたい。それはボールペンにしても靴にしても家電にしても同じことだ。

 

 

 

複雑系インフレーション

 

こないだ六本木のおしゃれなカフェ(倫理的な価値観から肉とかを食べない人たち...なっていうんだっけ?いつもわからなくなる。アガペー?ビネガー?)で"複雑系"の話をしたと思う。黒人が大使館の悪口を言いながらダルメシアンを眺めて、秋の始まりの風を感じたあの時だ。

 

"複雑系"っていうのは誤解を恐れず言えばバタフライエフェクトみたいなものだと僕は思っていて、世の中は"風がふけば桶屋が儲かる"みたいに何が何に起因しているかわからないから、一概に因果律では説明できないよね、みたいな論理だ。っていうか、少なくとも僕はそういう風にこの言葉を使っているんだけど。

 

こないだのカフェの時と前後して、僕の中の「複雑系」の価値観は行き過ぎなくらい発達してしまって、つまりは全てがナンセンス化してしまった。

例えば会社の上司が「優秀な人材が入らないのは休みが少ないからだ」と言えば、「他にも時期的な問題や時勢や、求人のフレコミの仕方など、無数の問題があるのでは?」と思ってしまうし、運転中に無理な割り込みをされた時も「この人は死ぬほどトイレに行きたいのかも知れないし、視力や注意力に障害があるのかも知れない。あるいは日本の交通事情に慣れていない外国人かも知れない」などと考え始めてしまう。それは、一概になんでも因果律で済ませてしまうような安直さから僕を遠ざけてしまう一方で、何も結論づけられないふわふわした脳みそを生み出してしまったような気がして、なんというか不如意だ。こんなつもりではなかった...のである。

 

 

 

 

明らかに相手が間違っている理屈の時でも、相手に対して「それでも相手は一生懸命喋っているのだから、何かしら正当性はあるのかもしれない」と思って一応は「ふむふむ

と聞いてみるのだけれど、結局最後まで聞いてみるのだけれど何を言っているのか訳が分からず「僕の理解力が足りなかった...のかも知れない」などと言いながら首を傾げて帰っていく日も増えた。そういうつもりではなかったのだけれど。

 

そういう風にして3年くらい経った気がする。多分。

今となっては断言する人が羨ましい。「あなたは絶対に間違ってる」とか「これだけは間違い無いから言わせてもらうけど」と堂々と言える人が今では眩しい。

今僕は口が裂けてもそんなことは言えない。

 

それは思慮深いからでもなければ、用心深いわけでもなく、ただ何もかも決めずに放置する態度を延長し続けることで、「AではなくBを選んだお前」にならない、楽な道を歩いているだけのような気もして、じゃあ今更どうすりゃいいんだよ。みたいな。

 

でもここまで書いておいてあれだけど、やっぱり答えがある競技よりも答えがない競技の方が好きだ。大好きだ。数学よりも哲学が好きだ。

 

 

 

村上春樹みたいな文体でエッセイ書くな

 

あーさぞかし村上春樹が好きなんだろうなぁ...

という文体のエッセイを読んでいたんだけど、その気取った文体のまま離婚した時の話に突入されて、それがキモくてとうとう本を閉じてしまった。「こうして僕のひとつの季節が終わりを告げた」じゃねえのよ。

 

まぁ村上春樹が好きであるが故に、ああいう感じの文章になってしまうのは、わかる。そういうことってあるよね。わかるよ。でもこっちが村上春樹を読んでいると、わかっちゃうんだよね。もう俺くらいになると「あるいは」とか言われただけで反応しちゃうんだから。でもわかっちゃうが故に、身体中が痒くなってしまってな。友達がネットで仕入れた情報をそのまま喋ってるのを眺めている気分に似てるよ。「ひえーやめてくれー」みたいな。

そのくらいならまだ可愛げがあるのだけれど、その気取った文体のまま離婚の話を(しかも完全に自己都合の身勝手な)されると、身体中の痒みは次第に痛みに転じて、耐えきれなくなってしまった次第でした。

 

そういうわけで今日は虫の居所が悪かった。ただ単に本で気分を害しただけでなく、本を途中で投げ出してしまった自分に対しても苛立ちがあった。出されたご飯を半分残してしまった時の居心地の悪さによく似ている。

 

「ちぇっ」という感じだ。

 

なんとかこの地獄みてえな読後感を払拭したくて、できるだけ罪のない本を読むことにして本棚を漁った。結局読み途中の岡本真帆「水上バス浅草行き」を読むことにして、しばらく読んでいたら少し気分が落ち着いて楽になった。短歌はいかなる精神状態でも読めるからいいよね。それから毒を以て毒を制すじゃないけど、村上春樹を読めばいいのではないかと思って村上春樹回転木馬のデッド・ヒート」をめくってみたら一行目から「ここに収められた文章を小説と呼ぶことについて、僕はいささかの抵抗がある。」から始まっていて笑ってしまった。やっぱすげえよ。本家本元は。オリジナルにしか出せない濃度があるよな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

特別お題「今だから話せること

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスで脳が疲弊した

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット」を観てきた。

後輩が「エブエブは本当に良いですよ。家族愛なので。最後泣いちゃいました。観たほうがいいですよ」というので観に行ったら大変なことになった。大変な映画であった。疲れた。

 

日々の生活に追われる中国人のおばさんが多元宇宙に点在する無数の並行世界の自分と行き来しながらカンフーで娘と戦う映画なんだけど、カンフーをインストールする描写は「マトリックス」のようであり、無限の可能性の枝分かれの先にいる自分の描写は「バタフライ・エフェクト」のようであった。

 

めちゃくちゃマトリックスのパロディの描写あったよね。

 

それにしても内容がはちゃめちゃすぎて、途中で何人か席を立って帰っちゃってからね。おすすめするかと言ったら、おすすめしません。。。。